気温が15度を下回る11月上旬になると新しいコートがほしくなる。年々コートは増え続けているけれど、それをやめることはできない。
私は寒いのが大の苦手で、できることなら常夏の国で生涯を閉じたいと思うほどだ。だから、寒いというだけでテンションが下がってしまう季節に少しでも自分の力で楽しさを生み出せるもの、それがお気に入りのコートだ。
ふと駅のショーウィンドウやトイレの鏡に映った自分を見たときや、寒さのあまり寝坊して適当なメイクになった日でも、はたまた低気圧にやられて頭が痛い日でも、お気に入りのコートを身にまとう自分がそこにいれば、少し元気になれる。
お気に入りのコートは普段の私を元気にさせるだけでなく、冬という季節に詰まったさまざまな行事たちの一張羅にもなってくれる。バレンタインやお正月、大晦日そしてクリスマスだ。
おそらくその年の新しいコート候補を手にしたとき、思い浮かべるのは寒さにやられている普段の私でもお正月の私でもなく、クリスマスの私だ。クリスマスの日。このコートを身にまとって生きる自分を思い浮かべ、ほくそ笑みながらレジへと進むのだ。
愛する人とふたりで過ごすクリスマスもあれば、好きな人に告白するクリスマスもあるし、毎年家族で過ごすクリスマスもあるだろう。でも、世の中にあるクリスマスはすべてアメリカのドラマの中みたいに幸せなものばかりではない。仕事でめちゃくちゃに怒られてしまうクリスマスや、恋人に振られてしまうクリスマスもあるはず。
大学2年生の11月。今年はどんなクリスマスにしようかと、また新しいコートを手に取りながら考えていた私は、あと1カ月ほどでやってくるクリスマスが、人生で1番悲しく忘れられないクリスマスとなることを知る由もなかった。
「女ひとりで生きていく力を」私の一部だった祖母
私は両親が共働きだったこともあり、昔からおばあちゃん子だった。私のおばあちゃんはちいさな割烹料理屋を40年営んでおり、その時代には珍しい波瀾万丈の人生を歩んだ強い女性だった。
小さいころから「女ひとりで生きていく力をつけなさい」という言葉や「勉強は唯一自分で自分を助けられる術になるんだよ」などの言葉をかけられ、日曜日の夜はおばあちゃんと勉強したり、お店が開く前の夕方の時間にドラマを二人で観たりしていた。
私は小学校に上がるまでは病弱だったため、冷え込む12月ごろになるとよく熱を出した。そんなとき、家で母に看病されながら寝ていると、店の仕事から帰ってきたおばあちゃんは必ずコンビニで売っているお菓子の入ったちいさな赤い長靴を買ってきてくれた。
子どもながらにもういいのになと思いながら、中身を出した赤い長靴をクリスマスツリーに飾っていた。「クリスマスまでには治そう」毎年そう思っていたことをいまでも覚えている。
私が小学校4年生のとき、おばあちゃんはお店を畳んだが、それでも元気いっぱいで、週末になるとその週に起こった出来事を聞いてもらったりしていた。家族みんなでよく出かけたし、大学受験もおばあちゃんの意見を聞いた。それくらい、「かけがえのない」と言う言葉で表すことが軽薄に感じるほど、いまの私の一部である特別な存在だ。
私のなかではいつまでもパワフルでかっこいいおばあちゃんだったが、歳を重ねるにつれて病気をするようになった。あそこが痛い、ここが痛いとも言うようになり、私が高校生になったときには癌にもなった。けれど辛い放射線治療にも耐え、見事に治した。周りの医者も私たち家族も彼女の生命力に驚がくした程だった。
だからずっとこの先もおばあちゃんは一緒で、成人式も結婚式も母から譲り受けた振袖の着付けをしてもらえる、大人になればなるほど恩返しができると思っていた。
2週間先のクリスマスでさえ、遠い未来に感じた
念願叶って入学した大学の1年目は毎日目まぐるしく過ぎ去り、おばあちゃんと会える時間も少なくなっていた。たまに話しに行くときもおばあちゃんの前だと安心するからか、部屋に入ってソファで話をぽつぽつしたあと気がつくと眠ってしまっていた。
大学生活に加えアルバイトや課外活動など、自らを隅から隅まで使っていたためいままでになく疲弊しており、そんな私のことをおばあちゃんはよく心配していた。「無理しすぎたらダメだよ」そんな言葉にも空返事で「大丈夫大丈夫」そう答えていたと思う。
その年の10月下旬ごろ。母がよく嘆くようになっていた。それはおばあちゃんの調子が悪いことで、これといって悪いところがあるわけでもないのに、ことある毎に調子の悪さを訴えられ、母は少し呆れていた。癌の定期検診も異常なく、私も「季節の変わり目に敏感になっているのだろう、もうおばあちゃんも歳なんだし」と流していた。
ところが、11月上旬ごろ事態は一変した。おばあちゃんの癌が再発、そして転移していたのだった。定期検診では見えなかったところで癌は着々と彼女の身体を蝕み、もう手の施しようがないところまできていた。
信じたくなどなかった。あのどんな逆境にも打ち勝ってきたおばあちゃんが、もうどうにもならないなんて。もはや信じていなかった。私たち家族はどんなことでもしようとした。抗がん剤でも放射線でもなんでもよかった。おばあちゃんを生かす方法があるのだったらなんでもしようと思った。
母は毎日病院へ行き、私も大学の授業が終わればすぐに病院へ行った。食事ができなくなればゼリーだろうがお粥だろうがなんでも彼女の口に運んだ。
12月になり、世の中はクリスマス一色となったころ。病室の窓からは外のライトアップが見えるようになった。その日は珍しく、私とおばあちゃんのふたり、久しぶりにたくさんの話をしたのだった。
大学の話や好きな人の話。「こういう人なんだけどどう思う?」そんな質問をしてただ一言「いいんじゃないの」と笑って言ってくれた。
そして40年やり遂げたお店の話をした。あの料理が好きだった、あの客さんはこうだった。「またあれが食べたいから作ってね」二週間先のクリスマスさえ、私たちには遠い未来のように感じていたのに、果たしてほしいという希望だけを胸に約束をした。
病室の窓から見えるライトアップされた木の下で母とふたり、窓から手を振るおばあちゃんに大きく手をふり返した。クリスマスなんて永遠にこなきゃいいのに。このライトアップがなくなるころ…そんな想像をしかけてやめた。