「慰謝料は払えない。手紙じゃだめ?」
苛立ちを止められぬまま3時間ほどが経った。テーブルのうえには正孝の置いていった結婚指輪がぽつり、と置いてある。
今夜は友達のところ泊まってくるわ、と正孝は家を出て行った。テーブルの向こう側にはもう誰もいない。自分で選んだ家具たちのせいで、この部屋のなかには正孝の名残すらない。
私はおもむろに自分の薬指につけた結婚指輪を外し、正孝の指輪の隣に置く。まだなんの傷もついていない、真新しい結婚指輪。眺めているだけで涙が止まらなくなった。
慰謝料300万円請求できますよ、と弁護士に言われたのはそれから2週間後のことだった。
泣いて泣いてどうしようもなくなった私が実家の母に電話すると、怒った両親が弁護士に相談したのだ。
「300万なんて…奈々子、どうしちゃったの?」
かつて同棲していたマンションは、そのまま私が住むことになった。お金を出し合って買った家具もすべて私にくれると言う。
「家具代で慰謝料の代わりにならない?」
「ならないでしょ。なるんだったら、差額払ってよ」
残っていた荷物を取りに来た正孝と、正孝の両親に私は冷たく言い放つ。家具や家電をすべて合わせても100万いくかいかないかだ。そもそも家電は、私が一人暮らしのときに使っていたものがほとんどである。
1人で話すのは心細いだろうと、私の両親も話し合いに参加してくれた。
「あのさ…奈々子は知ってると思うけど、俺いま起業に向けて頑張ってるんだよ?お金だって必要な時期なのに慰謝料って…奈々子がそんなこと言う人だと思ってなかった」
「私だって正孝のために仕事変えたんだよ?それを知ってるのに婚約破棄って…そっちこそ、言ってることひどいよね」
私の反論に、正孝はただただ黙るだけだった。
3年付き合った大好きな人。だからこそ憎くて憎くてたまらない。正孝の事情を考慮してやろうとは、とてもじゃないが思えなかった。ほかに好きな人ができたとか、そんな理由の婚約破棄だなんて。
「ごめんだけど、俺は払えない。無理だよ…いますごく大事な時期だし」
「奈々子ちゃん、正孝の将来を思うなら大目にみてやって?」
正孝の謝罪に被せるように口を開いたのは、正孝の母親だった。正孝の隣に座り、申し訳なさそうにつぶやいてくる。その顔の裏に「息子がかわいそう!」という真意があるのは見え見えだ。
ソラも厄介なおばさんと思ったのか、さっきから正孝の母親が撫でようとするたびに怒りを露わにしている。何度怒っても撫でようとするのをやめないので、すっかり寝室から出てこなくなった。
「そんなにお金がほしいなら、結婚指輪売ったら?」
正孝は、いいことを思いついたという喜びを一切隠すことなく、顔を輝かせて立ち上がる。
キャビネットのうえに置いた2人分の結婚指輪を持ってニコリと笑いかけてきた。
「お金がほしくて話してるわけじゃないけど」
「じゃあなんで慰謝料なんて…謝罪の手紙とかじゃダメなの?」
ヘラヘラと笑う正孝。賛同する正孝の母親。そんな2人を見て、突然私の父親が立ち上がった。