息子の「自分」をわたしが潰してはいけない
そしてこの翌年、次は三点倒立から、本格的な倒立にグレードアップしてしまいました。
息子は前年の三点倒立でさえ怖かったのに、今回の倒立は授業を受けることさえキツイと言い始め、体育があるから学校に行くのが嫌だと言い出しました。
体育のために全部の授業を休むなんて本末転倒。ならば体育だけ休んだほうがマシじゃんと思い、息子は体育さえ休めれば学校に行くというので、この年はわたしがひと肌脱いで一筆書きました。
「息子は怖がりで、倒立が怖くて、やろうとすると動悸が激しく、冷や汗まで出てしまうようです。どうしても参加できないというので倒立の授業の期間は見学させてください」と。
そもそも体育は、指定された競技をできるかできないかを評価するための科目ではなく、「身体を動かすって楽しいよ!」という経験を教えるための科目なんじゃなかなと思うし、その手段が評価という別の目的のために使われてしまっている気もします。
自分が体育が大嫌いで、できないことだらけのまま卒業しましたが、振り返ってみれば体育の出来不出来なんか人生に何の影響もなく、逆に苦手意識しか残らなかったので、なおさらそう思うのかもしれません。
すべてこなすために努力するのもひとつの手法ですが、可能ならそれを避けて通るのもひとつのやり方です。わたしは、それは「アリ」だと思っています。
こういう育て方をしていて、周りから「不真面目だなぁ」とか「過保護だなぁ」と思われているんだろうなって感じることもいままで何度もありましたが、わたしは息子の選択を誇らしく思えることをよかったと思っているし、息子に寄り添いたいと思っています。
いま若い子たちの心が折れやすいというけれど、みんなものすごくマジメなのに、世の中に振り回されちゃってる結果なんじゃないかなぁと思います。
学校では先生の言うことを聞いていれば優秀とされたけれど、社会に出れば「それくらい自分で考えなさい」と言われる。
景気が悪くて活気がないから、なんとなく未来が明るくなさそうな気がするのに、「なりたい自分を見つけよう」とかなんとか指導されて、まだ学校の往復しか知らない世界の狭い子どもたちは世の中にどんな選択肢があるかもわからないのに、いまのうちから「やりたいこと」を決めさせられる。
決めたら「自分で決めたことはやり抜きなさい」とか言われちゃって、「もうどうすりゃいいんだよ、人生なんかつまらない」と、八方ふさがりにもなるわなと思ってしまう。
ぶっちゃけ、中学生だか高校生で「将来やりたいこと」が見えてる人なんてどれだけいるんでしょうね?
先のことをあれこれ考えないのが若さの強みなんだし、高校生くらいまでは本当に学校という名の「枠」のなかしか知らないけれど、だんだん制約がなくなって、いろんなものを見て、いろんな世界を知って、そこから好きなことを見つけて選び取って行く。
大人になるって、決めた未来に向かって進むことじゃなく、まだ未知の未来を自分の手で作れること。だから人生って楽しいんじゃないのかなぁ、と思うんです。
そんな先のことを考えれば、学校で言われたことだけきっちりやっているだけよりも、息子みたいにちょっとはみ出ているほうが、生き抜いていけるんじゃないかな?なんて期待も持ちつつ。
情報過多な時代だからこそ、自分をしっかり持っていることはすごく大事なことだし、育てる側のわたしからすれば、右と言って右を向かない息子はものすごく育てにくくはあるけれど、そのしっかり持って生まれた息子の「自分」をわたしが潰してはいけないなと思います。
面倒くさいところも多い息子だけれど、相手が誰でも嫌なことは嫌だとハッキリ堂々と断れる息子がちょっと誇らしいなと思うきょうこのごろです。
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