こんにちは。男女が癒し合い、高め合い、元気になれる「真実の性」を伝え続けて18年。真実の性の語り部こと夏目祭子です。
私のメルマガ「真実の性の語り部・夏目祭子の『世界一わかりやすい“幸せな性”の授業』」では、夫婦のどちらかが“カラダのつながり”を望んでも、どちらか断わる理由について深掘りし、その解決策をお伝えしてきました。
きょうは、「自分の体を大切にする」ということについてお話しします。
「自分を大切に」「自分を愛する」という言葉で見落とされていること
「自分を大切にして」という言葉は、これまでもよく使われてきましたし、最近では「自分を愛すること」を勧める言葉もよく聞こえてきます。
ただ、そう言われても「大切にするやり方がわからない」とか「愛するって具体的にどうすればいいの?」と迷う人も多いと感じています。
すぐに思いつくのは、自分の気持ちに嘘をついたり、見ないフリをしないで尊重するといった「心を大切にする」こと。
また、自分の長所を何十個も書き出してみたり、欠点も含めて受け入れるといった「心を愛する」ようなやり方が一般的でしょう。
もちろん、こうした取り組みも、必要で効果的な心がけと思いますが、そこで見落とされがちなのは、「自分の体を大切にする」「自分の体を愛する」という視点です。
「体は正直」の本当の意味とは?
なぜ「体を」が抜け落ちてしまうのかというと、そうなるのも仕方がない理由があります。
いままでの時代は、自分の体のことを、当たり前にそこにあって自分の思い通りに使える道具のような「物」として扱ってきたからです。
けれども、実は私たちの体にも「こころ」があります。体そのものに「意思」が宿っている、ということです。
昔から「体は正直」という言葉がありますよね。頭では「やらなければ」「できるはず」と思っていることを、どうしても体が拒否して、できなくなったという経験はありませんか?
たとえ私たちが自分の心をだまして生きようとしていても、体が感じている「快」や「不快」が、そんな形で信号を発してくることがあります。
逆に、心で感じていることが、体に表れることも少なくありません。
心配事や苦痛を抱えている人が、胃が痛くなったり、じんましんが出る、円形脱毛症、顔面神経麻痺など、目に見える形の異常として表現されることもあります。
こうしてみると、私たちの心と体は、まるで1枚のコインの裏表のように一体になった運命共同体とも言えます。
「自分の体を大切にすること」は自覚から始まる
では、そんな自分の体を大切にするには、何から始めたらよいのでしょうか?
それは、「自分の体のお世話係は、自分」と自覚することからです。
私たちの体は「物」ではなく「こころある生きもの」なのだから、あたかも「大切な赤ん坊」を預かっているかのように、そのお世話をする責任者が自分なんだという自覚を持つこと。
そうは言っても、体に障害がある場合や、誰でもケガや病気で、体のお世話を人に手助けしてもらわないといけないこともありますが、それでもあくまでも「責任者は自分」と言えるんです。
なぜなら、体の感じている「快・不快」は、自分にしかわからないものだから。
まだ子どものうちは、それを言語化することが難しいから、お世話役の大人にも、それを読み取る責任が求められますが、大人になったら、「体の快・不快」を自分がきちんと受け止めてあげて、必要に応じてほかの人に伝える責任があるということなんです。
つまり「自分を大切にする」ということは、「こころを大切に扱う」ことと「体を大切に扱う」ことがセットではじめて完成するのだと私は感じています。
私たちの誰もが「自分の体を生きものとして大切にする」ことが当たり前にできていたら、他の人の体も大切にしようと自然に思えることでしょう。
そうすれば、人の体を「物」のように扱う、性暴力というものも起こりにくくなるはずです。
援助交際が「誰にも迷惑かけていない」は間違い
1990年代半ばに「援助交際」という言葉がブームになっていたころ、当事者の女子高生が、その行為を大人にとがめられたときに「自分の体をどうしようと自分の自由。誰にも迷惑かけてないじゃん!」と反論したセリフが、メディアでにぎにぎしく報道され、それに言い返せる言葉を持つ大人は、めったにいませんでした。
私も娘時代には彼女たちとよく似た考え方をしていたのでわかるのですが、彼女たちのなかでは、これは「体だけの関係」で、こころとは切り離してるから自分は傷つかない、という過信があったのでしょう。
だけど、行為は「体だけの関係」と思っていても、決してそれだけでは片づけられないもの。
そこに「体自身のこころ」と、昔から“自分の胸に聞いてみな”と言われてきたような「胸の内に宿るこころ」が重なり合って、混じり合う体験なのですから。
だからこそ、私たちがその行為を「本当にしたいのか・本当はしたくないのか」によって、そこから味わえるものが天と地ほどの違いになってくるわけです。
もし、本当はしたくない行為でも傷つかずにいられるとしたら、自分の体の感覚を、深く感じることがないようにマヒさせているから。
だけどそれは、「自分の体に迷惑をかけている」ことだから、その結果、体は後から反逆するように、色々な形で「不快信号」を発してくるものです。
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