高校3年生に上がる直前の春休み、ぼくは衣装箪笥から“父の仕事道具”を盗んだ。受験に落ちたら、これで死のう。
そうすれば自分で手を下しても、実際は父に殺されたのだと世間に示すことができる。父を社会的に、殺すことができる。
「自殺した子どもを持たせること」が、ぼくができるあの男への最大限の復讐だった。
- ※本記事では子どもへ向けた心体への虐待表現、自死表現があります。ご注意ください。
父から聞かされていた、死刑宣告
教育虐待サバイバー当事者であるぼくは、その実情を少しでも広く認知してもらうために、自身の実体験を書いて生きている。
だからここから先は、やや生々しい話になってしまうと思う。でも伝えたい大切なことがあるから、もし気持ちに余裕があったら、最後まで読んでくれると嬉しい。
「早稲田大学法学部に現役で合格しなかったら死刑だ」とあまりにも長い歳月、言われ続けてきたせいで、正直なんでぼくはいまもまだこうしておめおめと生き延びて文章を書いているのか、ときどきわからなくなったりする。
父の残虐な暴行からくるストレスによって、当時のぼくの成績はひどい有り様だった。奇跡でも起きやしない限り、早稲田の法学部に合格する見込みはゼロだったのだ。ぼくの当時の偏差値は、その程度のお粗末なものだった。
だから早稲田大学の合格発表日が死刑執行日になることは、ほぼ確定していた。あとはその方法を、選ぶだけだ。このまま黙って父に手を下されるか、ぼくが自分でカタをつけるか。
そして当日はやってきた。それ以前にいくつか他大の合格通知は受け取っていたけれど、そんなものにはなんの意味も価値もなかった。だってそれらは、ぼくの命を救ってくれやしないんだから。
その日ぼくは、お気に入りのスタジャンのポケットに財布と携帯電話と“父の仕事道具”だけを突っ込んで、朝早く家を出た。
合否発表確認の付き添いをお願いした友人と原宿駅で落ち合い、ジョナサンで朝食を採り、10時きっかりに指定の番号に電話をかける。
音声ガイダンスに従って受験番号や生年月日をガラケーで入力すると、しばらくのちに女性の無機質な声が不合格を告げた。だめだった、と呟くと、彼は「そっか」とだけ答えて、他愛のない話を振り続けてくれた。
それに返事をする気力を失うと、自分の分の食事代を彼に手渡して店を出た。2月半ばの東京は、ビル風が刺すように冷たくて寒い。スタジャンのジッパーを首元まで引き上げ、マフラーを首のうしろで固く結ぶ。ポケットに手を突っ込んで“父の仕事道具”の感触をたしかめながら、ぼくは自宅に向かうバスに乗り込んだ。
いったいどちらが、ましだろう。苦しまずに逝けるだろう。父は、すぐにぼくの息の根を止めるほど生易しくはない。ゆっくりとノコギリを引くみたいに、時間をかけてなぶり殺すはずだ。
もしかしたら刑の執行は、数日に渡るかもしれない。それほど長く苦しまねばならないのならば、いっそ一思いにあちらへ行きたい。
去年の春休みに決めた通り、ぼくはやっぱり自分の手で始末をつけることに決めた。
執行日、ぼくの選択は
場所の見当は、ずいぶん前からつけていた。清潔で、真新しく、人目につかない狭いところ。心臓はそぐわないほどないでいて、ぼくはそこで淡々と自身の死刑を執行した。真の執行人を示唆する、盗んだ“父の仕事道具”を使って。
気がついたとき、ぼくはその場の扉にもたれかかる形で座り込んでいた。だらりと投げ出した手をぼんやり見つめ、自分がやり損ねたことを悟った。
のろのろと立ち上がると、座っていたところに水溜りができていることに気がつき、お尻に手をやる。案の定、デニムがじっとりと湿っていた。どうやら小便を漏らしたらしい。
急に酸っぱいものが込み上げてきて、ぼくは嘔吐した。ジョナサンで食べたサンドイッチやなにやらをすべて吐いてもおさまらず、ぼくはずいぶんと長いこと吐き続けていた。
最後は胃液だけになって、ようやく吐き気が止まる。ふと、何の気なしに上を向いた。そこには天井がなく、
失敗してしまった、どうしよう。定められた命日に、抗ってしまった。自然の摂理に逆らい、勝手に寿命を延長してしまった。とんでもないことを、ゆるされざることをしでかしてしまった。
スタジャンのポケットを探り、財布を取り出す。そのときどういうわけだかはもう忘れてしまったんだけど、ぼくは普段より所持金を多く持っていた。千円札が、八枚。もしかしたらこれで、京都に行けるかもしれない。