ひとりで生きる女はかっこいい
「生まれ変わっても愛し続けるけど一緒にはいられない」
“運命の人と出会い愛し合ったけれど、やっぱり一緒にはいられず別れてしまう系ラブソング”が小さいころから好きだった。
中学時代に友人とカラオケへ行けば、私はそんな曲を眉尻を下げた悲壮感あふれる表情で情感たっぷりに歌いあげていたため、その光景を見続けた友人たちは口をそろえて「ミハルの将来っぽい」と笑って言った。
それに対して私はというと「やめてよ!幸せになるから!」と言いつつ、満更でもなかったのだった。
だって、恋愛を捨ててまで仕事を選ぶ女はかっこいいと思っていたから。“女の子は結婚して幸せになる”というデフォルトのヒロインみたいな生き方をするより、いい出会いがあるのに結局仕事を選ぶ女弁護士になりたかった。
だから私は漠然とした自分の将来を、仕事に生きるバリキャリ女子かつ晩婚(結婚できたらの話だが)であるだろうと思い描いていた。
だがしかし、想像していた未来とは裏腹に、社会人4年目26歳にしてすでに結婚を決めてしまったのだった。
なぜ私はバリキャリ女子になりたかったのか
結婚を決めたという報告に友人たちは案の定、異口同音に「意外だ」と言った。
学生時代は将来の夢を沢山語り合ったし、類は友を呼ぶ、友人たちも私と似たようなタイプだったため、そのなかで考えを変えた私に詰め寄るように理由を聞いて、なるほどねぇと唸りながら腕を組んでいた(「それどっちの反応?」と次の言葉を待った)。
そもそもなぜ私は恋愛より仕事、バリキャリ女子になりたかったのか。
前に書いたような小さいころのおぼろげな憧れに対して理由をつけるならば、おそらく「かっこいい=男性の性質=仕事」みたいな価値観からきたのだろう。
この価値観は私の育った義務教育過程に大きく存在していて、それをやってのける女性がかっこよかった、かつ母がその時代にはまだ希少であったワーママでカッコよく見えたからかもしれない。そしてその価値観は、進路を本格的に決める大学時代も世の中を大きく包み込んでいた。
中学時代の私から大人に成長してわかったことは、女性が仕事をすることがかっこいいばかりではないことだった。
女性の社会進出なんて口だけで、産休や育休をとることを上司に嫌がられたり、男女での採用率にあからさまな差をつけたりと問題だらけの社会であった。そしてそれを女性が社会に訴えることは、なんだか煙たがられる空気が漂っていた。
私はそんな社会に出て行かなければならない。けれど若いというだけで怖いもの知らずになれるもので、この両手には世の中を変えられる力があると思っていた。
どんどん働いてキャリアを築いて、いつかは訪れてほしい“女性が働きやすい世の中”になるための指標になってやる。そんな気持ちすら抱いていたのだ。
でも、いまから思えばそれは自己実現のための足がかりとしか思っていなかったのかもしれない。
働く女性たちの悲痛な叫びを載せた記事を読んで怒りを覚えたり、そんな世の中に意見したりしても、いまから思えばまるで違う国の天気予報のように他人事だった。未来は明るく、何よりも自己実現欲求を満たしたかったのだ。