「ありのまま」を認められないワケ
ありのままの等身大の自分を認め、その自分を肯定的に受け入れ、そんな自分からスタートする。こうしたことが自然に行われているとき、きっと私たちは人生に充実感や満足感、生きている実感を感じることができると思います。
ところが、こうしたよい流れを阻害してしまうものがある。それは、「感情の抑圧」じゃないかなと思っています。
たとえば、権威的、支配的な親から感情を押しつけられるなどして、自分の素直な感情を抑圧する習慣が身についていると、「自分らしさ」みたいなものを見失ってしまいます。親が信じている「子どもとはこういうものだ」「子どもとはこうあるべきだ」という「べき論」を子どもに強要してしまうからです。
「こういうことが面白い」
「こういうことはつまらない」
「こういうことは正しい」
「こういうことは間違っている」
「こういうことには価値がある」
「こういうことは価値がない」
など、子どもの素直な気持ちを無視して、親の考え(ルール)を問答無用で強要してくる。そして、その通りの反応をしないと、途端に親は不機嫌になる…。
幼児が親に対して「どう?楽しいでしょ?」「どう?怖いでしょ?」などと自分の気持ちを伝える(共感の要請・確認)ならまだわかります。ですが、その逆で、親が子どもに共感の強要をし、幼児的甘えの欲求不満を抑圧してしまう…。
ありのままの感情を失うことの弊害
こうした環境で素直な感情を抑圧することが当然かのように過ごしてしまうと、あることに対して自然に感情が湧き上がるというよりも、その前に「こういうことにはこういう感情を持つべき」みたいな感じ方をするのが正しいと思ってしまいます。
あることに対する「好き」とか「嫌い」ということも、自分の内側から自然に湧き上がってくる感情に従うのではなく、「こういうことは好きになるべき」「こういうことは嫌いになるべき」みたいなものが最初にあって、それに従って感情を創り出したり、そういうものだと自分に言い聞かせたり…。
自分の素直な気持ちに従えば、あまり面白いとは思えないのに、「きっと、こういうことを面白いと感じることが正しいことなんだろう」などと考えて、自分を納得させてしまう。
この逆を考えてみると、いかにこの状態が恐ろしいことかがわかるかと思います。
自分の素直な気持ちに従えば、どうやら本当は面白さを感じているにもかかわらず、「つまらないと感じないとおかしいはず」「不快と感じるのが正しいはず」と思ってしまうせいで、手を出すことを最初からしない。
これって、その人の可能性を無自覚に狭くしてしまい、結果、自信を奪ってしまう、かなりよろしくない癖だと思います。
ありのままの自分で生きられないのはなぜ?
「つまらない」も「楽しい」も「嬉しい」も「悲しい」も、自分の内側から自然に湧き上がってきた感情ではなく、「こう感じるべき」という刷り込まれたルールに則って努力して作り出した感情だったとしたら、その感情を作り出しているときに、その裏側では常に「本音の抑圧」が起きています。
「ありのままの自分として生きられていないな」と感じる人は、自分の気持ちを振り返ったとき、頭で考えて感情を創っているのか?それとも自然に内側からふつふつと湧き上がってきているのか?この感情に関する感覚をチェックしてみるとよいと思います。
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