青になる、がしっくりくる。彼との関係
彼と連絡を取らなくなるたびに「好きと依存の違い」や「都合のいい女から脱出する方法」など検索したり、そんな経験のある人に話を聞いたりした。
けれど、どれもどこか違う気がした。彼に対して好きという感情よりも違う何かが渦巻いている気がしていたし、振り回されているだけではなかったからだ。
彼と関わっているときの自分を思い出してみたとき、しっくりくる状態が「青になる」だった。
興奮状態になったり、何かに猪突猛進したりしているのではなく、体の真ん中をひんやりとした風がスーッと通っていく感覚。久しぶりに彼に会ってみると、彼に会っていなかった時間が夢のように感じるのだ。
このことに気づき出したのが、ちょうどコロナ禍であった。
新型コロナウイルスによって国際交流が制限される直前、就職を機に国へ帰ったベトナム人の友人たちに会うためにベトナムへと飛んだ。
旅行というよりは現地滞在。モーテルに3日間、彼らの実家に3日間泊まり、観光というよりは現地の生活を体験するものだった。娯楽に溢れた日本と違い、衣食住をするために生きている彼らとの数日間は、私の生き方を考え直すきっかけであった。
私のやりたいことや志していたものは、演劇や映画などの作品づくりや娯楽に関係するものを案件としてこなし、それがひとつの山だとしてずっと登山を続けているような働き方。その登山が人生のメインだとしたら、それ以外の時間は余り物。生活のために働く時間が衣食住とは関係ない場所にあった。
でも、ベトナムに行ったとき、私はあまりものだと思っていた時間に大きく魅了された。食事をみんなで囲み、働き誰かと話し、夜には寝る。その一瞬一瞬がどれだけ尊いものなのか、本当はとても難しいことなのかを知った。
これと同じことを、日本に帰ってきて感じることとなる。それはコロナ禍だ。
緊急事態宣言により、不要不急だとされるものが制限された。私の人生における登山は、不要不急だとされるものたちの大部分を占めていた。
そんなときに彼といることで気づいた。それまでは、彼と会っているときの「青になる」感覚を、好きなことに熱中できない悪い感覚だと思っていた。でもそれは違った。逆だと気づいた。
刹那的に生きることばかりに目が向いていたいままでとは違う、ただ健康で暮らしていけることを尊く思ったとき、彼に見ていた青い色は、炎の真ん中、いちばん熱くて大切なところだったと気づいたのだ。
青く燃ゆる炎。私の青春は彼だった
私はそのことに気づいたとき、彼に対する気持ちが変化した。私が振り回されているのではなく、彼に気づかされていたのだ。彼はずっとそれを教えていてくれたのだった。私は与えていたのではなく与えられていたのだ。
彼に見ていたものは、青く燃ゆる炎のように力強く惹きつけられる春だった。周りの人間が燃えようと必死に赤くなる春を打ち消すほどの力強い青い春。彼は私の青春そのものだ。
その彼はいま、私の婚約者である。「ひどい人だ」と私の愚痴を聞いていた人たちは、依存し引きずり流れのままに結婚すると思っているが、彼との結婚は私にとって一生をかけて青春を生きるということだ。
彼と生きると決めたとき、私はわざと燃えることをやめられた。刹那的な自分を生きることで青春を生きている気になるのではなく、ただ繰り返される毎日を自分で変えようとする気持ちでいることが青春なのだ。
優れた想像力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、そんな青く燃ゆる炎を持った彼と生きていく。私はこれから先もずっと青春を生きるのだ。
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