セクシュアルマイノリティと「両親」
ドラマでも老い支度など将来についての話題が登場しましたが、ふたりが家族になったからこそ登場したのだなと感じる“両親や家族との在り方”について、色濃く描かれた場面もありました。
今作で、シロさんのご両親はシロさんに「ケンジを実家に呼ばないように」と伝えてしまいます。ふたりがゲイであることが原因の拒絶に、ケンジは「仕方ない」と傷付き、憤る気持ちを押し殺し、笑顔で振る舞う姿がとても切ない場面です。
自分が彼女の家族から同じようにされたら、やっぱり苦しい。自分が拒否されたこと自体ももちろん辛いし、彼女と家族が毎年恒例として過ごしてきた時間を今後手放すことになることにも、心苦しさをすごく感じます。もしかしたらケンジは、そこにも心を痛めたのかもしれません。
シロさんはそれに対し、帰省は正月以外だけにして年末年始はふたりで過ごすことを決め、両親にもきちんと説明。そのことを報告する際言った「ふたりでいいじゃないか」のひと言は、ケンジが彼にとっての家族であるということを直接言わずとも込めていたのではと思うのです。
ご両親がケンジに会いたくないことを嫁姑間に置き換え、男女が結婚した際でも嫁と姑の関係は、本音を言えば相手に会いたくないということが往々にして起こることだと表現していたのも、とてもフラットな演出でいいなと思いました。
「ゲイだからだ」とその一点で考えてしまうところで、ほかの可能性も示してくれると少し気が楽になりますよね。
正月に帰省しないことでシロさんとご両親の仲が悪くなったかというとそうではなく、むしろ適度な距離感を保っていたように見えました。
今回シロさんは、ケンジとふたりで過ごすお正月のためにお節料理に挑戦しています。これは彼のお母さんが毎年手作りのお節を用意していたからで、ケンジのことを“この先の未来を一緒に歩いていく家族”として大切にしていく一方で、料理を通してお母さんのことも大切に想っているということが伝わってきました。
お母さんの黒豆も、シロさんの黒豆もとてもおいしそうで、僕は今回登場した料理のなかでこの黒豆が一番心に残っています。
子が両親や祖父母の得意料理を継ぎたい、同じように作ってみようと思うのは異性愛者でもセクシュアルマイノリティでも変わらないのです。
セクシュアルマイノリティと「子ども」
シロさんの料理仲間にしてよき相談相手である、田中美佐子さん演じる佳代子さん(富永佳代子)の家に、孫が産まれたことも家族を意識させる出来事でした。
産まれた男の子の名前には、シロさんの名前から「朗」の字をもらって名付けられたのも印象的。実は僕も、親族に産まれた子どもに、ご両親の意向で僕の名前から一字つけてもらったことがあるんです。
自分に子どもを持つ予定はいまのところなく、今後もない可能性のほうがかなり高いなかで、自分の名前の一字がついた子どもが近しいところがいるのはすごく不思議で、すごくありがたいなと心から思っています。
さすがにシロさんのように親の名前と一緒とまではいきませんでしたが、名付けのことをお母さんに話すシーンは感慨深く拝見しました。
「孫ってそんなに大切?」佳代子さんが孫が産まれると報告した際に、ジルベールが言ったセリフです。
彼がこうして毒づくのは、決して意地悪だからではないと僕は思います。たとえば、彼も実は愛する男性との間の子どもがほしいと考えたことがあったり、周囲に祝福されるような幸せを得たかったり…いろいろ、思うところがあるのだと感じます。
セリフにもありましたが、誰かの“嬉しい”は僕も嬉しい。しかし、そうも言いたくなってしまう気持ちもわかります。
僕は彼女とフォトウェディングを挙げていますが、公にオープンにしているわけではないので、男女の結婚のように周囲に祝福されることはありませんでした。
父にはカムアウトをしないままこっそり挙げたし、母にも「いいんじゃない?」と認めてはもらいましたが、「おめでとう」とは言ってもらえませんでした。彼女も、おおむね同じような状況です。
だからといって、周りの結婚や出産を祝わないなんてことはしません。誰だって人生の節目節目で祝福されたいし、愛する人がいて幸せであっても世間の思う幸せではないことは悲しいです。