「性別」だけじゃない。さまざまなマイノリティの生きづらさ
シロさんのお仕事シーン。シロさんが国選弁護士としてサポート役を担った、被告であるホームレスの窃盗・殺人事件では、無実にも関わらず裁判員裁判で被告側が有罪となってしまいました。
その後の面会で控訴することを提案しますが、被告は「自分らのような人間は声を上げても聞いてもらえないんじゃないか」と、ホームレスであることで無罪を勝ち得ないと諦めるように肩を落とします。
シロさんは、一度は彼の言葉に同じ社会から見たマイノリティである自分を重ね、「控訴しない」という彼の意思を尊重すると口にしますが、法律を扱う者として控訴の説得を続けることに。このシーンもなかなか考えさせられました。
セクシュアルマイノリティだけではなく、さまざまなマイノリティやマジョリティと比べて弱い立場にあるかたがたが、昨今SNSによって以前よりは声を上げやすくなってきました。
上げやすくなったもののやはり声を上げること自体は相変わらず怖く、不安を伴うものです。
声を上げたことで周囲や他人からどんな視線を向けられるか、批判や心ない言葉を投げつけられるのではないか。そして彼のように「自分の言葉を信じてもらえるか」。
それらを考え、怖くて声を上げることなんてできないというかたも多くいるでしょうし、諦めてしまう心情も理解できます。だからホームレスの男性が控訴しないと言うのにも、「そうだよな、しんどいよね」と共感しました。
そして共感したからこそ、その後シロさんが一緒に立ち向かおうとしてくれていることを心強く感じました。映画の作中では描かれませんでしたが、控訴し、今後いい方向に向かうことを願っています。
ふたりでこの先も歩いていくには…
仲睦まじく微笑ましい場面でも、切なくて涙があふれてしまう場面でも、考えさせられる場面でも、何があってもふたりは食事や食事作りを通してふたりの日常に戻ることができるところも、この作品のいいところだなぁと改めて感じました。
シロさんとケンジにとっては、同じ料理をおいしく一緒に作ったり食べることでしたが、どんなカップルでもパートナーと仲直りしたり日常にかえるスイッチのようなものはあるのではないでしょうか。
たとえば同じ映画を観たり、ゲームをするとか、一緒にお風呂に入るとか。どんなカップルでも上がり調子のときも下がり調子のときもあって、それをお互い無理がないように声を掛け合って進んでいくものじゃないかなと思います。
そのなかでそんなスイッチがあると、仲直りや向き合うきっかけもしくはリラックスして前を向くリフレッシュになるんじゃないでしょうか。もし「私たちにはないかも」と思ったら、ふたりで探してみてもいいかもしれませんね。
僕も、シロさんとケンジのように彼女とふたりでこの先も歩いていきたい。歩いていけるように頑張ろうと思いますが、終盤のシーンでケンジが言っていたようにふたり“だけ”では生きていけない。
僕にも彼女にも地元に家族がいて、理解してくれる人やお世話になっている人がいて。当たり前だと思わずに、ちょうどいい距離感で大切にしていきたいなと改めて思いました。
そんな風に、ふたりの姿を観ながら自分たちのことにも当てはめながら楽しめた2時間。泣いて笑って考えさせられて、カロリー高めで大満足な作品です。最低もう一回は、足を運びたいと思います。ぜひ劇場で鑑賞してみてください!
- 劇場版『きのう何食べた?』
- 公式サイト
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