願うことは、感謝すること
ちょっとお堅い人が、「神社は願いをいうのではなく、感謝しに行くところです!」っていうのを聞いたことありませんか?
僕のまわりにもそういう人がたくさんいました。特に神社や神道をマジメに勉強している人ほど、そう厳しくまわりにも諭しています。
まあ、それはそれで正しいことでしょう。確かに、願いごと「だけ」しに行く場ではないと僕も思います。
だけどね。それはそのまま「願い事をする場所ではない」と、イコールにはならないと思っています。というか、「神社は願いごとをする場所でもある」と、僕は考えています。
なぜなら日本では、「願うこと」と「感謝すること」は同一のものであったから。
これはどういうことかというと、いまでこそ神社では日本人の生活様式に合わせて1年中その季節に合った「まつり」が執り行われていますが、はるか昔は、日本で行われる「まつり」は年に1回だけだったんです。それが現在、旧暦の元旦(だいたい2月17日頃)に行われる「祈年祭」です。
年に1度の「まつり」ですから、旧年中にたくさんの稲が穫れたことへの「感謝」と新年中の豊作への「願い」を同時に捧げたわけです。
なので、神様への「感謝」と「願い」が込められたのが、日本本来の「まつり」の姿であり、感謝することと願うことは同一の行為になるのです。
つまり、日本人は単に願い事だけをするという感覚自体がなかったともいえますね。「感謝」があり、その先に「願い」があった。もうこれはセットなんですよ。
「いままで元気に生活してきました、ありがとうございます。これからも健康でありますようよろしくお願いします」というのが、本来の姿。
ほら、どうでしょう?一緒になってるでしょ?セットになってるでしょ?
それにこのスタイル、日常でもありませんか?