クィアマガジン「purple millennium」を運営し、LGBTQ当事者としての経験や考えを発信しているHonoka Yamasakiです。
私は「フェミニズム」という言葉を初めて聞いたとき、「専門的で難しそう」「何かに対して怒った女性がデモ行進をしている」といった印象を持ちました。フェミニズムについて知る前は、そういった先入観から、なかなか触れづらい分野であるとも思っていました。
ですが、フェミニズムは女性の権利、人種、セクシュアリティ、ジェンダーなど、広義的に使われ、どれも共通して「平等」を目指すものでありながら、人によりさまざまな解釈がなされています。
フェミニズムを一言で断定することは難しいと同時に、私と同じように平等な社会を目指す人がフェミニズムに触れていることで、気軽に学ぶことのできる分野であると認識したのです。
自分ごとな社会について知る
フェミニズムと社会は、切り離せない関係にあります。私がフェミニズムを知ることとなる大きなきっかけは、社会が自分ごと化したときでした。
そもそもフェミニズムとの出会いは、大学生のころ。当時、初めて同性の女性と恋愛に発展することがありました。それまでは男性とお付き合いをしていて、特別二人の関係性に“異性愛”を感じることもなければ、不自由を感じることもありませんでした。
いま思い返すと、気付かぬ特権を持っていたのだと実感します。当時は、社会に疑問の目を向けるなど思ってもいませんでした(恥ずかしながら、その概念すらもなかったのかもしれません)。男女の関係がいかに特権をもつものなのか、マジョリティに属する身としていかに鈍感であったのか、同性のかたとお付き合いしたときに初めて気づかされました。
恋愛の話になると、前提として恋の人称が「彼氏」になったり、“あえて”同性の恋人がいることを公言しなければ、自分のアイデンティティがないものとされてしまうことが日常茶飯事。個々が不可視化されることは、自分のための社会がないという意味なのです。
たとえば、異性愛中心の世の中で、同性間での結婚が認められないことにより、子どもの親権がどちらか一方になることや、氏を選べないこと、配偶者としての社会的認知が得られないことなど、さまざまな不利益が生じます。
そういった性別による不平等は、コロナ禍でさらに浮き彫りとなりました。たとえば、家族が病気にかかった場合、会社に相談すれば対応してもらえることでも、特にカミングアウトしづらい職場では関係性を伝えられないことで、助けを求めることができないケースもあります。
また、病院でも法律上の家族ではないことを理由に、立ち会いが拒否される場合も考えられるのです。マイノリティにとって、命の危機だけでなく精神状態の悪化など、さまざまな問題が立ちはだかるとが予想できます。
法律がないことは人権がないこと
法律がないことは、人権がないこと。声をあげても「法律は〜だから」と仕方ないものとされてしまいます。マイノリティであることで、社会では声をもたない存在とされてしまうのです。
異性愛者のなかでも、結婚する人・しない人がいます。「選択肢」があるから自分たちの意思で決定できます。そして、「選択肢」があるから結婚という概念があるのです。
反対に、性的マイノリティの人たちは結婚ができない状況にしか身を置くことができません。つまり、「選択肢」がないのです。同性愛者のためにつくられた法律が不在する日本では、すでに権力構造があるだけでなく、「同性愛」という概念すら浸透されない傾向にあります。
まずは法律ができ、さまざまな「選択肢」があることで、はじめてスタートラインに立てるのです。
そういった不平等な社会を問題視する人たちが増える世の中で、多くの人は「セクシュアリティやジェンダーは重要ではない」「あえてカミングアウトする必要はない」といいます。
たしかに、さまざまな性のありかたがあることが当たり前だと認識することは重要です。ですが、LGBTQが可視化されにくい世の中でマイノリティであることを公言しないことは、異性愛中心の社会を助長することにつながります。
マイノリティのための法律ができ、マイノリティの人権が守られるようになり、初めて“あえて”語る必要がなくなると思います。なので、マイノリティの可視化に務めるため、私はこのように記事で“あえて”LGBTQに触れ、カミングアウトがカミングアウトではなくなるまで、“あえて”カミングアウトしています。