子どものころは、「結婚」というものに甘い夢を抱いていた時期もあったように思うが、10代後半ごろからそんな夢はまったく持てず、「結婚は地獄の入り口である」と思うようになっていた。
それには、複雑な家庭環境が影響しているわけだが、そんな私がなんと3年前にスピード結婚をして、故郷である福島にUターンするに至った。
自分でも驚きの展開だが、夫との結婚生活そのものに、いまのところ不満はない。しかし、ほんの少し前まで、誰にも言わなかったが少し生き苦しさを感じていた。
その苦しさとは「姓が変わったことで、自分が自分じゃなくなってしまったように感じる」というものだった。
なぜ妻は「夫の姓」にしたのか
知り合った当初から、夫も、夫のご両親も、現代的な考えをするというか、頭が柔らかいというか、「婿になってもいいですよ」というスタンスだった。
夫はさておき、ご両親も「どうぞどうぞ」と言わんばかり。夫が次男で、長男である義兄にはすでに子どもが3人いる(しかも全員男の子)というのも大きかったのだろうが、婿になることで色々とスムーズにいくなら、そのほうがいいでしょうという考えだった。先進的な家族だなぁと思ったのは覚えている。
けれど夫が婿になるのではなく、私が嫁に入るかたちとして、夫の姓になった。その理由は先にも書いたが、「複雑な家庭環境」を私なりに考慮してのことだった。
私の父は5人兄妹の長男(仮に姓を藤原とする)。子どもは姉と私の女ふたり。父の下には弟がふたり(私にとっての叔父)、妹がふたり(私にとっての叔母)いるのだが、弟ふたりは結婚せず子どもはいない。叔母ふたりは嫁いで姓が変わっている。
もちろん、その子どもたち(私にとっての従兄弟・従姉妹)も、姓が違う。つまり、藤原を継ぐものが私か姉かどちらかしかいない状況だった。
そんななか、姉が東日本大震災の後に、かねてよりお付き合いしていた男性と結婚して、姓が変わった。いよいよ「藤原」を名乗る次世代は私しかいなくなってしまったのだ。
私はそもそも結婚願望がまったくなかったので、両親にも「私の結婚は諦めてくれ」と言っていたほど。そんな私がまさかのスピード結婚である。
しかも相手は「婿になってもいいよ〜」と言ってくれている。普通に考えたら「万々歳!」な状況なのかもしれないが、私は素直に喜べなかった。
「複雑な家庭環境」というのは、藤原を継ぐ人がいないということではなく、藤原家の人間たちに問題があるということなのだ。
小さいころから「この人たち、おかしいんじゃないか?」と思うようなことが、本当に本当にたくさんあった。身内の恥を晒してしまうのであえて内容は書かないが、「本当に同じ人間か?」と思うような言動をたくさん見てきた。
まだ子どもだった私に直接の被害はなかったけれど、何度もおかしな場面を見ているうちに心は荒み、「私は絶対結婚なんてしないし、子どももつくらない!藤原の血は繋がない!」と心に決めていた。
そんな私が、「結婚してみてもいいかもな」と思ったのがいまの夫。結婚して、もし藤原姓になったら、この怨念めいたドロドロしたものや面倒ごとを、すべて引き受けなければならなくなる。そんなことは、この人にはさせられないと思ったのだ。
それで、一も二もなく「私が夫の姓になる」と決めた。いまの日本の制度では、結婚するならどちらかの姓になるしかなく、私には夫の姓になるという選択肢しかなかったのだ。
自分が自分じゃないみたい
免許証も、マイナンバーカードも、身分証は全部「佐藤(仮:夫の姓)」になった。自分の姓が変わって初めに思ったことは「しっくりこない」だった。
「そりゃあ長年名乗ってきた苗字じゃなくなったんだから当たり前よね。そのうち慣れるさ」と自分に言い聞かせながら過ごしていたけれど、役所で、病院で、宅配便の荷物受け取りで、「佐藤さん(仮:夫の姓)」と呼ばれるたびに、自分じゃない誰かを呼んでいる気がして、「はーい」と返事をするにもお尻がもぞもぞして落ち着かなかった。別の自分を演じている感じというか。
仕事では旧姓を使っていたから、仕事相手はみんな「藤原さん」と呼んでくれる。徐々に「藤原」と呼ばれることに喜びを感じるようになっていった。そして、仕事の世界だけが落ち着ける居場所のようになってしまった。
けれど、仕事を終えてパソコンを閉じると、「佐藤」である現実に戻される。夫は元々自分の姓が変わることに対して抵抗がないらしく、「そんなに大変なことなの?」というくらいの認識。そんな夫にも「この苦しさを理解してもらえない」と内心イライラした。
自分で「夫の姓になる」と決めたのだから、夫が悪いわけではない。誰も悪くない。自分の考えが甘かっただけ。誰のことも怒れない。
自分でも気がつかないうちに、少しずつ心が疲れていった。外に出ると、否応なく「佐藤」であることを実感させられるから、家にこもって、夫以外誰にも会わずに、パソコンのなかの仕事相手とだけやりとりするようになっていった。
いま考えると、かなり精神的にギリギリだったと思う。まさか、苗字が変わるということでこんなにも自分の心がぐらつくとは思っていなかった。
自分が「藤原」の人間であるということを、あんなに嫌だと思っていたのに。「藤原」として、アイデンティティが確立されていたのか。
私は私の名前が好きだったのだ。大切に思っていたのだということに、失ってから気づかされた。けれど、今更おそい。もうどうにもできない。「佐藤」であることを受け入れて、慣れていくしかないと諦めていた。