「女の子を産んでほんとによかったわ、私の愚痴に付き合うてくれるんはこの子だけや」と、母が誰かに自慢するあの瞬間は、筆舌に尽くし難いほど甘美だった。
ぼくの性の在り方は「ノンバイナリー(性自認が男性・女性どちらにも当てはまらない)」に該当するのだが、「女の子」と称されることすらどうでもよく感じられるほどだった。
父と母の馴れ初め
毎年盆と正月に父の実家に帰省すると、母は毎回と言っていいほど必ず泣いた。姑にいびられ、夫に蔑ろにされ、しくしくと泣く母を慰める役割をいつしかぼくが引き受けるのが当たり前になっていった。
北陸に在る父の実家は、いわゆる「本家」だ。地元じゃ有名な金持ちで、親戚たちは皆そろって医者か弁護士か経営者。輝かしい学歴と経歴をそのまま己の価値だと信じて疑わないような、選民思想と男尊女卑思想が一族中に蔓延している、そういう腐った家風である。
そんな家に嫁がされた母は、ぼくの目からは不幸に映った。見合いで知り合ってから3カ月と経たぬうちに婚姻届を提出したらしいのだが、この「家と家の結び付き」を目的とした結婚自体、そもそも母にとっては不本意だったんだと思う。
父の家系も母の家系も、日本と韓国とロシアの3カ国にルーツを持つ人種マイノリティである。ぼくは現在30歳だが、ぼくの親世代の在日外国人社会では、コミュニティ内で結婚するのが当たり前だった。「日本国籍を有する日本人」と自由恋愛で結婚するなんてことは、まだまだ稀だったのだ。
結婚は昔の日本社会同様、「家と家の結びつきを強くするためのもの」だし、そこに恋だとか愛だとかが介在するかどうかなんて二の次だったと聞く。
ぼくの母は、美しい人だ。昔もいまも、贔屓目(ひいきめ)なしで美しい。学生時代は男子の間でファンクラブが設立されるほどモテていたらしいし、授業参観なんかではしょっちゅう同級生たちに「ちーちゃんのお母さん、めっちゃきれい!」と騒がれた。
還暦間近の現在も、とてもそうとは見えぬほど若々しい。性格も控えめでおっとりとしているし、料理も裁縫もプロ級にうまい。
もし彼女が普通の「日本人」だったら、引く手数多だっただろう。母自身、きっとそんな「if」を幾度となく想像したはずだ。
彼女の将来の夢は、「お母さん」だった。両親が共働きだったために幼少期は寂しい思いをしたから、自分は家で愛する夫や子どもたちの帰りを待つ「お母さん」になりたかったと、いつだったか言っていた。
だからこそ、よく母は「こんなはずじゃなかったのに」と泣き喚いた。描いていた未来とあまりに違う現実に、長い年月をかけてその心は壊れていった。
初めて泣く母をなぐめたあの日を、いまだにぼくはありありと思い出すことができる。
小学校高学年で、父の実家の2階の子ども部屋に避難していたときだった。父や祖父母やそのほかの親戚たちがくつろぐ1階の居間は、いるだけで息が詰まる。いつ誰がどのタイミングで機嫌を悪くするかわからなかったし、その捌け口はたいていぼくだったから。
ぼくの代はぼくしか「女の子」が生まれなかったから、母たちが台所仕事で居間を開けているあいだ、一族のミソジニーはすべてぼくに向かうのだ。
ともかく、それが嫌で嫌でたまらなくて、ぼくはしょっちゅう2階の子ども部屋に逃げ込んでいた。そこは昔伯父が使っていた部屋で、古い小説がたくさんあったから、暇をつぶすには最適だったのだ。