私の気持ちを理解してくれない彼。家事や子どものことをまったく手伝わない夫。親のいうことをぜんぜん聞かない子どもたち。毎日遅くまで家に帰って来ないパートナー。
誰かとの関係をよくするためにとはいえ、「相手に対して持っている期待を手放しましょう」なんて提案をいきなりすると、間違いなくお怒りが返ってきてしまいます。「人に対する期待を手放すって、そんな相手のことを全部受け入れろってことですか?」と。
そもそも「期待」って?
私たちは自分に対して、大切な人に対して、周りの人に対して、「こうあってほしい」という想いを抱きます。私の気持ちを解ってくれる彼であってほしい。いつも私を気遣ってくれるような夫であってほしい。勉強に、いろんなことに一生懸命取り組む人間になってほしい。私や家族を大切にしてくれるパートナーであってほしい…。
その想いが悪いとか、間違っているわけではまったくありません。でもその想いが「○○するべきだ」「そうあるべきだ」になってしまうと、「想い」が「期待」に変わってしまいます。
求める気持ちが「正しく」ても
私は朝ウォーキングをするとき、たくさんの人とすれ違います。毎日見かける人も、そうでない人も、私と同じように運動している人も、そうでない人も…。
路上で出会う人には会釈を、公園や山のなかですれ違う人には「おはようございます」と挨拶します。笑顔で挨拶してくれる人、微笑んでくれる人、反応は人それぞれですがだいたいの人が挨拶を返してくれます。
でもなかには、絶対に挨拶をしてくれないおじいさんもいらっしゃいます。
私は「もしかしたら少し耳が遠いのかな?」とか、「ハイジのおじいさんみたいに偏屈だけど本当はすごく優しい人なのかもしれない」とか、いろいろと想像しながら何年もすれ違ってきたのですが…この前、神社の前で満面の笑みをこぼしながら挨拶して、おばさまたちと話しているおじいさんを見かけてしまいました。
少し寂しい気持ちになりましたが、「じゃあ私は、挨拶をされてすべての人に笑顔で返せているのか?」というと、たぶんそうでもないのです。考えごとをしているとき。坂道で息を切らしているとき。「知っている人かなあどうかなあ?」って考えている間にタイミングを逃してしまうこと…きっと不愛想になっているときもあります。
挨拶は、多くの人が「すべきもの」として考えているでしょうし、こちらが挨拶したら相手は挨拶を「返すべき」だとも思っているでしょう。でも少し想像してみてくださいね。
「きょうはこのおじいさん、ちゃんと挨拶を返してくるかな?」とか、「きっとこの人は挨拶もちゃんとできない人だから」と思いながら毎日「おはようございます」っていっているとしたら…。
逆に、すれ違う人たちみんなが、私たちが笑顔で挨拶を返すことを期待しながら「おはようございます」といってきたとしたら…「正しい期待」だとはいえ、なんとなく寂しかったり、鬱陶しかったり、しんどかったり…しないでしょうか?