男女の格差を作り出しているのは男性だけではない?
ジェンダーギャップ指数を計るカテゴリーで見ると日本の現代の体制自体に男女の格差を見て取れるが、現在の私たちの意識としての男女格差を見るとあながちすべて男性のせいだとも言い切れない。
男性がいようがいまいが、私たち女性は女性だということを意識し過ぎている気がするのだ。娘から妻になり、子どもができたら母になるという社会的立場や、掃除や洗濯は女性が得意だという誰かに期待された役割で自分自身を縛っている。私自身が感じている仕事上での女性という「性役割の縛り」も感じる必要のないものなのだ。
逆を言えば、ジェンダーロールに縛られることが息苦しいと感じている私も、「女性らしい服装」や「女性の仕事」だと言われることが嫌いにはなれない。「女性らしい」と言われてうれしいというプラスの感情を持つ人だってたくさんいるはずだ。
現代に生きる私たちはこのような「男はこうあるべき」「女性はこうあるべき」という価値観に縛られて生きている。それをマイナスに捉えると、もしかしたら女性の社会進出における自信の無さや男性における大黒柱ではならないというプレッシャーに繋がっているかもしれない。
これが現代の日本の男女格差を生み出している根本的な原因なのではないだろうか。
ジェンダーギャップ指数1位のアイスランドとの違い
ジェンダーロールに縛られた価値観やそれに囚われたままの体制は、どの国にもあったはずであり、これを変えようとするデモや改革はさまざまな国の歴史のなかで起きている。ではなぜ国ごとにジェンダーギャップ指数という数字の違いが表れるのだろう。
男女の格差を生み出す大きな柱としてあるのが「仕事」と「家庭」だ。男女による統計的な得意不得意を押しつけ、ジェンダーロールを当てはめることが男女の格差を生む。そのしくみがある限り、男女の格差は埋まらない。
日本における経済・政治・教育・医療の分野での働きかたや雇用制度は、「休むことなく働ける人材」を重宝するしかないものだ。
男女という性質を除き、個人として見ても、「体力のなさ」や「出産という一定期間の休みを必要とする人」と「働き続けられる人」どちらを必要とするかと聞かれれば、おそらく後者であろう。そもそも日本が回り続ける仕組みが、物理的な女性の性質を受けつけないものなのだ。
ではジェンダーギャップ指数1位のアイスランドの働きかたや雇用制度はどのようなものなのだろうか。
まいにちdodaによると、まず大企業という規模の会社はなく、正社員や非正規雇用者というくくりが存在しないため、給料は基本的に時給で換算する。また経験や能力による時給の違いは雇用主が決めるのではなく、交渉によって変わることが多いそうだ。
そして福利厚生は企業ではなく、労働組合が定めていて内容が手厚く細かく定められている。だからこそ、仕事における成果の評価は厳しく、自分の働きかたや生活環境、能力に適した職種への転職が当たり前になっているらしい。
このようにアイスランドと日本の「仕事」のしくみを考えるとジェンダーギャップ指数の順位の差が開く理由がわかる。企業の大きさによって収入が大きく変わることもなく、時間だけが収入のバロメーター。
業界それぞれに働く個人の能力によって評価され、育児で働けなくても福利厚生が手厚い。この仕組みがジェンダーロールに囚われず、個人に意識を向けられる理由なのではないだろうか。