子育てと仕事
「出張、お願いしても大丈夫?」
真依子は、佐藤かおりのほうを見た。佐藤は、目をおとしていた資料から顔を上げる。真依子の会社では在宅勤務が導入されているが、真依子たちが所属する営業部は、週に2回は出社することになっている。
16時過ぎか。きょうもなんとか間に合いそうだな。佐藤の頭上の時計を見て、真依子はひそかに安堵した。娘の凛は近所の保育園の3歳児クラスに通っているが、会社から地元の駅までは電車で40分近くかかる。これから、17時30分のお迎えには問題なく行けそうだ。
「あ、はい。大丈夫です」
どちらかというとクールな佐藤は、あまり表情が豊かなほうではないのだが、特に問題はなさそうに思えた。
「いつもありがとう。じゃあ、今回の東北エリアの商談は佐藤さんにお願いします。ほかは、私のほうからはありません」
産後、仕事に復帰してから2年近く経つが、真依子は一度も出張には行っていない。真依子が務める文具メーカーの商品は全国展開されているので、地方の取引先も多い。定期的に商談や売り場の見回り、フェアの提案などが発生するが、リモートや電話、メールでのやりとりだけでなく、やはり直接現地に足を運ぶことでしか得られないものもある。
真依子も、凛を授かる前は複数の地方エリアを担当していた。妊娠中も体調が安定してきてから数回は行ったのだが、いまは日帰りのものも含め、ほかの人に行ってもらっている。最近は社歴も近い佐藤に行ってもらうことが続いている。
いくつかの事務連絡があった後、会議は終了した。真依子は足早に会議室を出て、自分の席につく。時計を見ると、16時20分になっていた。15時00分からスタートした会議は1時間の予定だったが、今回は新たな施策の話があったので、少し伸びてしまったのだった。
残り10分。営業会議の配布資料に再度目を通してファイリングした後に、きょうやるべきことを書き出したポストイットを再確認し、すべてに線が引かれているのを確認した。よし、きょうやらなきゃいけないことは終わった。
時間との戦い
「進藤主任、駒田百貨店の宮下さんからお電話です」
真依子が立ち上がってパソコンをシャットダウンしようとしたのと、真依子から3つ先のデスクにいる若手社員の平岩の声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
えっ、いま?真依子は内心そう思う。それに、あまりよくないことのような予感もする。でも、真依子の本来の会社の定時は18時までなので、営業時間内だ。連絡してくること自体は問題ないのだが、こちらから電話をすることはときどきあっても、向こうからかかってくることはほとんどない。でもとりあえず、出るしかない。
「お電話変わりました、進藤です。はい、あ、今朝お送りした資料ですね。ご覧いただいてありがとうございます。ええ、8ページ目ですか、ちょっといま確認しますね…」
予感は的中した。真依子が作成して送った資料の8ページ目に販促計画の表を入れたのだが、確認したところ、そこが途中で途切れてしまっているのだという。おおもとの資料を探し出して貼り付けて再送すれば大丈夫なのだが、資料を探し、適切な処理をして貼り付けるとなると、いまから30分以上はかかるだろう。
真依子は明日の午前中でもいいか聞こうとしたが、明日、朝一の打ち合わせで資料を使いたいとのことなので、やはりきょう中に送らなければいけないようだ。
「申し訳ございません。再送させていただきますので、少々お待ちください」
電話を切って、中腰の状態からまた席につく。これで、もういつものお迎えの時間には間に合わない。資料を探す前に、保育園に延長保育の電話をしなきゃ。冴島さん、お迎え変わってくれないかな。あ、きょうは残業するって、今朝いってたんだっけ。あーあ、最悪。でもしょうがないか…。真依子は、思わず小さくため息をついた。
「ごめん、佐藤さん、折りたたみペンケースの販促計画の表って、共有フォルダのどこだっけ」
斜め前の席に座る佐藤に話しかける。
「何かあったんですか?」
「この前送った資料、販促計画の表が切れちゃってたみたいで。フォルダのなかに元の資料があるから、その部分を貼って再送することになったの。先方が明日の打ち合わせで使いたいんだって」
真依子は、パソコン画面のほうを向き、カーソルを動かして資料があるフォルダを探しながら答える。
「…私、やっておきましょうか」
「え、いいの?」
「いま急ぎの業務はないので、よければ」
うう、助かる。真依子は、佐藤が神様のように見えた。さっき出張をお願いしたばかりなので後ろめたい気持ちもあったが、ここは甘えさせてもらおう。
「ごめん…共有フォルダのなかに入ってるはずだから。似たようなタイトルのファイルがいくつかあるから、探すのにちょっと時間がかかるかもしれないんだけど。本当、申し訳ない。わからないことがあったら連絡ください。ありがとう」
お先に失礼します、と言いながら立ち上がる。「お疲れ様でーす」というまばらな声を背中に受けながら、真依子は足早にオフィスを出て、エレベーターホールへと向かった。