仕事のすれ違い
「佐藤さんのことなんだけどさ」
きょうは在宅勤務だが、真依子は上司の安田とオンライン通話をつなぎ、昼食を摂っている。安田は、入社当初から真依子に目をかけてくれていているひとりだ。
画面には安田が箸で卵焼きをつまみ、口へはこぶ姿が映っている。出社がない日はその時間をつかって子どものお弁当づくりを担当するようになったそうで、共働きの奥さんと自分のぶんも、一緒につくっているという。
佐藤に何かあったのだろうか。佐藤は先週二泊三日の出張へ行き、今週は、昨日から有給休暇を取っている。真依子もここ数日は顔を合わせていない。
「実はさ、ちょっと最近、仕事量が増えてきてしんどかったみたいだったんだよね」
「…そうだったんですか」
「前に進藤が担当してたエリアに、いまは佐藤さんが出張に行くようになってたじゃん? 本人としては、出張に行きたくないわけではないみたいなんだけど。ほかにも、進藤の仕事を代わりにやってくれてたりもしていたみたいだし。でも、進藤は子どもがいて大変だろうからって、なかなか相談もしにくかったみたいで」
佐藤は、4年前に同業種から転職してきた。年齢は真依子より5歳下の37歳で、20代の終わりに結婚した夫がいるそうだが、子どもはいない。
いまの会社での立場としては、社歴も長い真依子のほうが少し上だ。しかし、佐藤も前職から営業としてのキャリアがあるし、真依子は長らく主任止まりだし、しばらくは昇進も見込めない。だから、今後は佐藤が真依子よりも上のポジションにつく可能性だってある。
「もしできればなんだけど、日帰りで行けるエリアでいいから、また出張に行ってもらえる?もちろん、まだお子さんが小さいから無理はいわないし、俺がカバーできるところは行くようにするけど」
「…はい」
「旦那さんの仕事の都合もあるとは思うんだけど、ちょっと考えておいて」
それから安田とは少し話をしたが、いまひとつ会話の内容が入ってこなかった。真依子の頭に、佐藤の顔が浮かぶ。真依子自身、正直、佐藤の善意に甘えていたところはあった。
実際に、いまの真依子は出張に行くのが不可能というわけではない。泊まりがけの出張はまだむずかしいけれど、日帰りならば事前に冴島さんの勤務を調整してもらって、凛の保育園の送り迎えを頼めばいい。自分の帰りがいつもより少し遅くなったとしても、一緒に子育てをしている冴島も寝かしつけはできるのだから、そこまで大きな問題はない。
本音として「ほかに行ってくれる人ややってくれる人がいるのなら、自分でなくてもいいのでは」という気持ちがあったのも事実だ。佐藤に出張やほかの仕事をお願いするときも「子どもがいないなら大丈夫だろう」と思っていたところがまったくないとは言い切れない。
むしろ「キャリアアップのための機会を与えてあげている」とすら、どこかで思っていなかっただろうか。子どもがいないからって、仕事が人生の最優先とは限らないのに。もちろん本人に聞いたわけではないからわからないけれど、もしかしたら以前の真依子と同じで、子どもがほしいけれどなかなか授からないとか、何か事情があるのかもしれないのに。
自分が「子育てをする立場」に立ってみると、よくも悪くも、その立場からしかものごとを見たり考えたりすることができなくなると痛感する。真依子は子どもを授かるのに苦労したこともあって、より、凛との時間を大切にしたいという想いは強いほうかもしれない。
でもそれはときに、無自覚な傲慢さにつながってしまうことも、あるのかもしれない。
一方で、最近では正直、あれだけあった仕事への熱意は日に日に薄れつつある。「子育てしながら仕事を続けてるだけで、よくやっているほうでしょ」とすら考えることもある。
とにかく、次に佐藤に会ったら謝ろう。そして、一度は出張へ行けるように準備しよう。真依子はモヤモヤと落ち込む気持ちを引きずりつつ、ふたたびパソコンへと向かった。