「子なし夫婦」の将来
在宅勤務を終えた真依子は、夕方からふらりと外へ出かけた。冴島は、今夜はミーティングが長引きそうだとのことで、夕飯は食べてくると言っていた。
夕暮れの空気を感じながら、ひとり商店街を歩く。真依子と冴島はいまから1年前、約3年にわたる不妊治療に区切りをつけた。「やめどきがわからない」という声も聞いていたが、確かに「次こそは」と、ときどき休みながらもクリニックに通い、治療を続けていた。
最後まで子どもにこだわっていたのは、真依子のほうだった。冴島は真依子の身体を心配してくれたし、別に自分は夫婦ふたりの生活でもいいと、折に触れて言っていた。
結局、子どもを授かることはなかった。もしかしたら、もう少し続けていればまた違ったかもしれないが、あきらかに不安定になることが多くなっていた真依子を見て、冴島がやめようと言ったのだ。
不思議なことに、その当時のことは、あまり鮮明には思い出せない。
「あら、いらっしゃい。きょうはひとり?」
店の扉を開くと、カウンターに立つみのりさんが、優しく声をかけてくれる。奥で、少し離れた場所に立つ夫の健二さんが、ひっそりとこちらへ頭を下げた。
商店街の端にある『小峰珈琲店』は外からはほのかに暗くて、小窓からようやく中を見ることができるくらいだ。店のなかには、奥のテーブル席で本を読んでいる初老の男性がひとりいたが、真依子が入店してほどなく出ていった。真依子はいつもの通り、カウンター席に座る。
「はい、夫は仕事で遅いので」
「そう。いつものでいい?」
「お願いします」
「いつもの」というのは、ホットコーヒーとチキンライスに、エスプレッソがかかったバニラアイスクリームのセットだ。冴島と散歩をしているときに見つけたこの店は不思議と落ち着くので、真依子ひとりでもときどき足を運んでいる。
出されたホットコーヒーを含むと、口のなかに深い香りが広がる。身体があたたかくなって、力が抜けた。
「あなたと旦那さん、仲がいいわよね。ここに来るといつも、楽しそうに話してるじゃない」
みのりさんは言う。
「そうですか?」
みのりさんは、そうそう、といった調子でうなづく。
「…子どもがいないから、かもしれません」
真依子は、半ばひとりごとのようにつぶやいた。これまで特に子どものことは話していなかったが、別に隠すことでもないし、もういいか、と。
「ずっと、ふたりの生活なので」
子どもがいないことをあえて話題にする機会もなかったので、言ったあと、真依子はなぜか少しだけほっとした気持ちになった。
「うちもね、いないのよ、子ども」
みのりさんは、さっぱりとした口ぶりで言う。
「そうなんですか」
真依子は、すこし意外だった。てっきり、もう成人した子どもでもいるのかと思い込んでいた。
「ほしかったんだけどね。もう、ずいぶん昔のことだけれど」
「…私も、本当はいまでも、ほしいと思ってます。でもなんていうか、世の中には、どうしようもないこともあるんだなって」
真依子は、ほほえんだ。これまでの人生で、大学受験も就職も結婚も、すべて順調にとはいかなかったが、最終的には叶ってきた。
それでもひとつだけ、子どもを持つということだけが、叶わなかった。
真依子がいままでのことに思いを馳せていると、目の前にチキンライスのお皿が置かれた。鮮やかな赤色に、細かく刻まれた野菜と、小ぶりの鶏肉が混ざり合っている。
「熱いうちに、どうぞ」
健二さんはそう言うと、買い物があるといって外へ出かけていった。
「みのりさんたちご夫婦も、仲いいですよね」
「そうねぇ。まぁ、これからはちょっとでも長生きできるようにしないとね。私がいなくなったらあの人、ひとりになっちゃうから。友だちもいないし」
みのりさんは、冗談ぽく肩をすくめた。チキンライスはちょうどいいあたたかさで、シンプルながら凝った味がした。