ワクチン接種でさえも、公平・不公平?
そういう「いままでに見えなかったもの」が姿を現すと同時に、格差もまた目に見える形になりました。
公平・不公平と、オリンピック選手や関係者に先行されるワクチン接種にさえ、異議を申し立てる人が出てきます。そうなると、選手のなかにも、国民より先に打つことができるワクチンに対して、遠慮というストレスに見舞われるでしょう。
反対に、「我先よ」と高齢者や医療従事者よりも優先的にワクチンを打つ人が出てくると、メディアが煽り、事を大きく報道します。
多くの人は「打てる人が先に打てばいい」と思っているはずであるのに、不公平だと誰かが口火を切ると、「そうだ!そうだ!」とメディアに掻き立てられる。そして多数派が正義となり、周りが混乱していく。
いつかは打てる、順番は回ってくるワクチン接種。それに対し早いも遅いも優先順位も、アメリカではまず報道していません。
ワクチン接種にGOサインが出た当初のアメリカでも、優先順位は年齢別に実施。高齢者から医療従事者が優先されワクチン接種が始まったのは日本と同じで、それでもワクチン接種のキャンセル待ちを望んで、接種会場に並ぶ人も多くいました。
しかし、それらの人たちに対して、公平だとか不公平だとか意義を問いただすメディアはおらず、運よくワクチン接種ができた人に対しても「よかったですね」で終わるのがアメリカなのですが…。
日本とアメリカの「生きづらさ」
「生きづらさ」という単独で使われる単語は、英語にはありません。あえて表現するならば、「difficulties in life」。日本の「生きづらさ」の表現とは微妙に違います。
出る杭は打たれるという言葉があるように、ちょっと人と違うとか、目立つとか、突出する人や行動は憚られる社会の色が強い日本。趣味趣向が同じ人が集まればそこには輪ができますが、そこで「出る杭」になってしまえば、調和が乱れます。
調和を乱す者はあからさまに浮き立つのですが、周りから受ける本音と建て前をうまく解釈しなければ、同じ場所で同じ空気を吸うことが難しい。自分らしく「地」を出して付き合いたいけれど、我を出すことができず自分を偽り、我慢をし、周りとの「調和」という空気に重きを置く。
こういう生きづらさは、アメリカに来て感じたことはありません。「多様性を認めろ!もっと自由に!もっと寛大に!」という時代の流れはあれど、日本はそれが「主義主張」を押し付ける傾向になっていませんか?