情緒的な問題を抱えた人々
そもそも、親自身に「成熟した大人」「親」といったアイデンティティが確立され、そのアイデンティティを気持ちよく受け入れて人生を生きているのであれば、子どものことを自分の支配下に置こうとする必要はありません。そうした人は、当たり前に「大人として」「親として」の振る舞いをします(もちろん、時に感情的になることはあるでしょうけれど…)。
ですが、これまで連載のなかで紹介した親に共通していえることは、かなり強度の劣等感、罪悪感、羞恥心、無価値感、無力感を隠し持ち、誰か(何か)に寄りかからないと生きていけないという情緒的な問題を抱えているということです。
また、社会というシステムや自分自身の人生に対する根深い恨みや憎しみ、人に対する強度の不信感を持ちつつも、それに矛盾するかのような、見捨てられ不安や孤独への強い恐怖観念に囚われているということです。
どうしてそういう状況になっているのかは、親が育った当時の時代背景や家庭環境など、それぞれ親なりの理由があります。
たとえば、戦中、戦後を生き抜いてきた親の場合、私たちのように平和で物があふれた時代には想像もできないような価値観社会の中で生きてきたわけですから。
あるいは、閉鎖的な地域で育った親の場合も、その閉鎖的な環境から独特の価値観を持つこともよくあります。
そういう時代や地域を生きるために身につけた価値観と、いまの価値観は全く違っていて当然です。
だからといって、昭和、平成、令和と時代はどんどん移り変わっているにも関わらず、当時の価値観を押し付けられるのはたまったもんじゃないですよね。そもそも昭和時代に親だった人が、いまの価値観に照らし合わせたら、みな毒親になるかといったら全くそんなことはないわけで…。
あくまでも僕基準での話ですが、毒親と毒親以外との決定的な違いは、そうした親自身が抱えた問題を、親自身が自分の力で解決しよう、癒やそうと努力するのではなく、悪意によって子どもに丸っと背負わせることで、自分だけが身軽になろうとする、姑息なまでの身勝手さにあると考えています(悪意とは「わかっていてやっている」という意味です)。
そして、この悪意は、どこかの世代で「連鎖」を断ち切ろうとする人が現れないと、「返報性」が働いて脈々と受け継がれてしまいます。