落ち込むことなかれ
「大きな石」の話に沿って、生活のなかや人生、もしくは1日のなかで大切にしたいことややらなければならないことから順に入れてみましょう。
休息や余暇も含めて埋めてみて、それでもあふれてしまうものが出てきた場合は、どうしたって手放さなきゃけなくなってしまいます。
なぜならどんな人にとっても1時間は60分で、1日は24時間、1年は365日であることに変わりはないからです。
時間は有限で、大きな石が入るスペースはあらかじめ決められています。そもそも、手持ちの大きな石が空の壺にすべて入りきるとも限りません。
そんなときは大きな石の大きさを変えたり、周囲と協力して大きな石ですら入れることを諦めなければならないかもしれませんし、そのための努力も必要かもしれません。
そういうときは「ひとりで抱え込む自分」からも卒業が必要なのでしょう。趣味や余暇に関しても、優先順位の高いものに比べれば小さな小石や砂や水かもしれません。
しかし、大きな石の間を埋めるクッションとして必要なんです。必要だけれど、大きな石と同様に入る量やスペースには限りがあります。僕たちは有限な時間を生きる以上、入るものを取捨選択していかなければならないのです。
入らなかったものを愛するなというわけではありません。でも、愛せないタイミングがあってもおかしいことではないし、離れる時期が生まれることも珍しいことではないのです。
大人の卒業も悲しくない
こう書いてしまうと、なんだか大人にとっての卒業は悲しいことばかりなように感じてしまうかもしれません。しかしそうは考えてほしくありません。
大きな石や小石、砂、水はある日小さくなったり、勝手に器から出ていくこともあるということも覚えていてほしいのです。
そのときには新しい砂や水を見つけて入れてもいいし、大きな石を自分の意思でもう少し大きくしてもいい。
そしてかつて手放したものも、再度入れられることもあります。もしかしたら手放したもの“そのもの”ではないかもしれませんが、手放したものと同じくらい愛せるものと出会っていれば、それを自分の壺に加えることもできるかもしれません。
手放すことを卒業とするなら、たとえるなら再入学。実は僕もいま、一年近く長年通っていた習い事をお休みしています。
本業や身体のことだったりで、結果的にそうしなければならない状況でした。しかし止めたとは全く思っていません。“一旦”卒業しただけで、いつかまた再開したいと心から思っています。
そう考えたほうが悔しくないし、また再開する際の心のハードルも下げてくれると考えているからです。いまはただ、僕の壺に習い事という石が入るスペースがないだけ。そう考えると、大人の卒業って自由度が高いと思いませんか?
取捨選択することは悲しいことではないのです。取捨選択しなければリソース不足に陥り、溢れかえってしまい、きっと辛い思いをするでしょう。
取捨選択することはその辛さを軽減して、幸せを保つためであることも多い。それはある意味、卒業の先に幸せがあるとも考えられませんか?
健康のためであれば断たなければいけないものを、続ければ健康状態は悪化します。それも幸せを保つため、と考えられないでしょうか。
大人にとっての卒業の多くは「幸せを保つための取捨選択」なのかもしれません。だから悲しいことではけしてないんです。
なのでこの記事を読んでいるあなたが何かを卒業しなければならないのだとしたら、どうか悲しまないでください。僕はきっとその先に幸せがあるのだと、一緒に願いたいです。
- 参考:DIAMOND ONLINE
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