SDGs自体が「絵に描いた餅」?
息子の話を聞いていてわたしは、「そもそもこんな世間知らずの高1にぶった切られる内容を大真面目に実践しようとしているのもどうなのか?」と疑問に思い始めてしまいました。
戦争や環境汚染って、日本だけ頑張ればいいものでもなく世界的な問題。草の根活動で海のごみを拾ったところで影響は知れています。
要は、言ってしまえばSDGs自体が「絵に描いた餅」そのものになってしまっていて。そりゃ実現できればよさそうなもんだけど、実際どうするんだというツッコミが各所から聞こえてくる。
戦争している国や、環境保全無視な感じで産業をぶっ放す国など、「SDGsとか意識してるのか?」と本人に聞いたことはないけれど多分気にしていないと思う。
でも、大きな力が動かなければきれいごとの実現に近づかない。だからこそ絵に描いた餅感が出てしまう。
さらに、ちょっと大きなお世話感があるような目標が多いのも感じます。
ジェンダー平等などは典型的な例ですが、これ、問題視しているのはジェンダーに悩む当事者ではなく、なんか勝手に問題視している外野の方たちなのですよね。
なんとなく取り組みやすそうなので取り組んではみたものの、外野が勝手に考えた施策で「やった感」を出しちゃってるから謎の策が生まれてしまっています。
新宿歌舞伎町の「ジェンダーレストイレ」なんてのはその典型。男女共用のトイレをあんな繁華街に作ったら、ジェンダーレスの前に普通に性犯罪が起こるでしょうに。
誰か止めなかったのかなと不思議でならないけれど、木を見て森を見ずの典型ですね。
貧困をなくそう、なんてのもそうですよね。貧困が起こる構造は単純ではなくて、国ごとの事情や国際情勢なんかも関わってきます。
なんなら先進国が搾取する形、たとえばコーヒーの栽培など、労働搾取とか児童労働とかって、先進国のコーヒー産業が原因だったりするわけで。先進国はそれをやめようって思えるかというと、そういう部分の動きは見えない気がします。
なんというかやっぱり目標を立てるときって「具体的な行動ありき」でないと絵に描いた餅になりかねない。
そして目標が「世界平和」とかビッグワードすぎると、そりゃそうだよねと思いつつも具体的なイメージが湧きにくい。
結局掲げただけで満足、努力してるよというスタイルだけが形骸化してしまうんではないかと思うのです。
なんとなくうちの息子は野生の勘が働くのか、そういう「きれいごと」感に嫌悪感を抱いてしまうようで、「SDGs推し」な学校教育にも嫌気がさしてしまっている模様。
国連が提唱したから間違いない、それに向かって何かしよう、と「絵に描いた餅」であることに触れずに突き進む姿は、見えない敵に向かって突き進むドン・キホーテであったり、自分が何者かわからない裸の王様を彷彿させてしまうのでしょう。
親であるわたし自身も、SDGsという目標を掲げることで「意識する」こと自体は悪くないと思いますが、息子の話を聞いていると、たしかに「そもそもの目標設定がざっくりすぎるなぁ」とか、息子の言うように「絵に描いた餅」感が強いなぁと共感してしまいます。