2. 古代の禊ぎが息づく宮崎県のみそぎ池イザナギが示した再生の知恵

image by:大杉日香理
日本神話の中で語られる「禊ぎ」の原点は、イザナギとイザナミの物語にあります。
天地の始まりに多くの島々や神々を生み出した夫婦神であるイザナギとイザナミ。しかし火の神を生んだことでイザナミは重い傷を負い、亡くなってしまいます。
深い悲しみに沈んだイザナギは、愛する伴侶を追って黄泉の国へ向かいます。黄泉の国は、生の世界とは異なる静寂と影が支配する場所。
イザナギはなんとかイザナミと再会しますが、その姿はすでに変わり果てていました。
黄泉の国の食べ物を口にしたイザナミの身体が腐敗した光景は、イザナギの心を深く打ち砕いたことでしょう。
恐怖のあまり逃げ帰ったイザナギは、生者の世界と死者の世界の境界である「黄泉比良坂」を岩で道を塞ぎ、黄泉の国との縁を断ち切りました。
しかし彼の身には、黄泉の穢れがまとわりついたまま。
そこで、イザナギが向かったのが古事記に記される「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」です。
筑紫は、現在の九州であり、日向は、宮崎県を指します。
この場所でイザナギは、自らの身についた穢れを祓い清めるために禊ぎを行います。
古事記には「禊ぎ祓いし時に」と明記され、この禊ぎの行為そのものが多くの神様方の誕生につながったと語られます。
イザナギが水に身を浸し、衣や身体を順に洗い清めていくたびに、さまざまな神々が生まれました。
その中でも特に重要なのが、三柱の神様です。
まず、イザナギが左目を洗った時に生まれたのが、天照大神。太陽の光を象徴する存在として、のちに日本の中心となる神話を担っていきます。
続いて、右目を洗った時に生まれたのが、月読命。夜を司り、昼と夜の調和、時間の巡りを象徴する存在です。
そして鼻を清めた時に生まれたのが、素戔嗚尊。海原を統べ、荒々しい力と同時に生命を育む働きを持つ神様です。
この三柱の神様は 「三貴神」 と呼ばれ、日本神話において極めて重要な役割を担います。
つまり、禊ぎとは単に穢れを落とす行為ではなく「新たな生命が生まれ、再生が始まる行為」であったということです。
イザナギが行った禊ぎは、絶望の底から再び光へ向かうための最初の一歩であり、その象徴が今も宮崎県の地に伝わっているのです。
この舞台とされる一帯には、現在「みそぎ池」と呼ばれる池があります。みそぎ池は、公園として整備された「阿波岐原森林公園」の中にあります。
日向灘に面した地域ならではの海のエネルギーを含んだ風は、禊ぎの場にふさわしい清らかさを帯びています。
夏には蓮の花が咲き、水面に淡い色を落とします。風が通るたびに葉が揺れ、水面に重なる波紋が光を細かく散らす光景は、静かでありながら生命力に満ちています。
その場に立つと、不思議と呼吸が深くなり、イザナギの禊ぎの物語が今も息づいているように感じられるでしょう。
日向灘は、沖合を流れる黒潮の影響を強く受ける地域です。
黒潮は日本南岸を北上する巨大な海流で、太平洋の暖かなエネルギーを運び、豊かな魚介類と生命循環をもたらしてきました。
古代の人々は、この大きな流れを自然界の息吹そのものとして感じ取っていたでしょう。
黒潮は巨大な「流れ」です。流れは龍神そのものであり、その躍動が土地に活力をもたらすと考えられてきました。
水の動きが龍神の働きとして語られたのも、こうした自然の観察に基づく先人の感性があったからでしょう。
そして、水が流れるところには必ず再生があります。
流れが止まれば淀み、流れが通ればすべてが循環し、息を吹き返す。その象徴が、イザナギの禊ぎであり、みそぎ池にまつわる伝承です。
この地は、長い年月をかけて人々が自然と寄り添い、水の力を感じ取りながら暮らしてきた中で培われてきた「禊ぎの力」そのものが息づいている場所なのです。
実は、12月にこの話を伝える意味があります。
水が再生をもたらすように、季節が冬へ向かう時、心にも自然と余白が生まれます。
その余白は、過去を洗い流し、次の一年へ向けて新しい流れを迎え入れる準備が整う合図です。
次のセクションでは、イザナギが禊ぎをした『橘の小戸』と関連する、もうひとつの伝承地についてお伝えします。


0 件
