悲鳴をあげる身体
その翌日、予定よりも早めに、ぼくは青あざだらけの体を引きずって下宿先である京都祖母の家へ越した。父と顔を合わせないよう朝早く出発し、新幹線ひかり号の自由席の端っこに丸まって、ひとり震えながら泣いた。
ようやく終わったと、その日思った。もうあの父の機嫌で殴られたり罵倒されたりする日々は、二度と来ない。これから先ぼくは、優しくて大好きなおばあちゃんちで、安心して眠りにつく日々を送ることができる。
それが勘違いだと思い知らされたのは、京都に引っ越して3カ月ほど経ったころだった。
高校生くらいから寝つきの悪さは自覚していたが、それはますます悪化した。
インターネットで「眠れない 対処法」などのワードで検索をかけ、湯船に浸かり、寝る前にホットミルクを飲んだ。適度な運動で肉体を疲れさせるべく、鴨川沿いを走ったりもした。
でもすぐにしのぎきれなくなり、薬局で睡眠改善薬を買ったりもしたが、それもほどなくして効かなくなった。
「本格的になにかやばいことが自分の身に起きている」と自覚したころには、たぶんいろいろなものが手遅れだったのだろう。
毎晩悪夢にうなされ、己の叫び声で飛び起きることもいつしか日常の一部になっていた。日中はほとんど食べ物を受け付けなくて、まともに食事を取る習慣も失っていった。
そのくせ朝起きると食べた覚えのないカップラーメンの残骸が机に転がっていたり、歯を磨いて口をゆすぐとチョコレートの溶けたものが出てきたりすることも、しょっちゅうだった。
感情のコントロールが効かず周囲の人間に当たり散らすようになり、大学では次第に孤立していった。やがて出席せねばならない授業がある日以外は、部屋から一歩も出ないようになった。
大好きだった映画を観る気にもなれず、本を読む気にもなれず、ついには風呂にすらろくに入れなくなった。
意識的に睡眠を取ることを諦め、ひたすらコタツかベッドに横たわって、何をするでもなくただ天井だけをぼうっと眺める。束の間やってくる睡魔は必ず悪夢を引き連れ、ぼくは悲鳴をあげて飛び起き、便器に頭を突っ込んで朝方まで嘔吐し続ける。そんなふうに、ゆるゆるとぼくは、死に向かっていった。
だいすきなおばあちゃんは、ちょうど引っ越したころから認知症を発症して、さまざまなことがわからなくなっていた。元々は頭の切れる人だったけれど、物忘れにより複雑な話を理解できなくなっていて、とてもじゃないけど相談など持ちかけられる状態じゃない。
それにおばあちゃんとぼくの居住スペースは1階と3階で分かれてため、顔を合わせない日もあった。心のうちを話せる人が周囲にいない状況に打ちのめされ、ぼくは毎晩のように東京にいる友人たちに泣きながら電話をかけていた。