「したくない」も「したい」ことも「悪」じゃない
陽一が同僚女性に言われてしまった、「他人への想像力が足りないよね」という一言は、あまりにも彼に欠けていたみちに対する態度を表してしまっていました。
陽一にとっては、結婚は愛しているからするもの。結婚していればパートナーを愛していることになりますが、実際はそうではないことはこの記事をご覧のかたにはおわかりかと思います。
彼はみちのことを愛してはいたのでしょうが、「子どもは要らないと言ったらみちが離れていってしまうから」と、夫婦間にとってとても大切な子どもをもつ・もたないという問題から意図的に目を逸らしていました。
それが彼女をどんなに傷付けることになるか、愛しているというのにそのことに考えが及ばない。及んだとしても傷付けるとわかるからこそ言えないと、問題を遠ざける。
愛しているのなら、相手が不用意に傷つくことから遠ざけたいと、考えようとするものではないのでしょうか。
そう考えることが理想論であることは重々承知しています。しかしできる人ばかりではなくても、しようとする努力すらしないことは、本当に愛情を持った相互的なパートナーシップと言えますか?
考えが及ばない・自分の言動のその先で、相手がどう感じるかという想像力が足りていなかったところは、楓にもあったように思います。
仕事を理由にレスになってしまうのなら、話し合いにくい問題でどんなに気まずくても話し合って期限を設けるなりするべきでした。
仕事が理由であってもなくても、「したくない」と思うことは決して悪ではないからです。
たとえパートナーであってもしたくないときはしたくないと言っていい。
しかし、「したい」と思うことも決して悪ではありません。悪であるとしたら、それは性的同意を得ずに無理強いするような場合。
そうでないのならば、コミュニケーションの方法のひとつとして、パートナーに性愛を向けることは恥ずかしいことでもはしたないことでもありません。だから、話し合いが必要なのです。
ひとりでするものではない以上、パートナー間の関係性を穏やかに保つには「しない」ということにもお互いの同意と納得感は必要です。
しない分、そのほかのコミュニケーションやスキンシップで心を満たすことでも納得感は得られます。
それを踏まえて、自分たちの場合はどうしていこうかと話し合いを持つことが大切です。
誠は納得感がないままレスにあったから、「楓が納得するまでオレは一生待ってろってこと?」と先の見えない不安に苛まれてしまいました。
したいと思っている側にとって、この「一生我慢しろってこと?」という不安は心を引き裂かれるような痛みを伴うもの。
それを放っておいた結果が「私のこと嫌いになった?もう好きじゃない…?」という言葉にかえした、「わからない」という答えだったのです。
ドラマでも注目した人が多かった、楓がみちに放った「たかがレスごときで…」という言葉に、「たかが、じゃないです」と反論したシーン。
このシーンからわかるように、レスの要因のひとつには行為に対してどれくらい重きを置いているかという価値観の不一致があります。
レスをする側にとっては「たかが」で、求めることは「性欲強くない?」と否定したくなることでも、される側にとっては「たかが」ではないしとても大切なものである場合があります。
それなのに楓は結婚記念日のデートで訪れたホテルで、求めてきた誠をいつも通り拒否したことで投げつけられた彼の予想外の反論に対し、「それであなたが満足するなら」とあてつけのように服を脱ぎ捨てる。あくまで「したいと思っている誠が悪い」と言うかのように。
大切にしてるものを大切だと必死に伝えて、当てつけのようなことをされて心が折れない人ってどのくらいいるのでしょう。
数年ぶりの営みでみちと目を合わせなかった陽一と同様に、楓もすればいいんでしょという態度が見え隠れする。
楓はこのとき、わざと服を脱ぎ捨てたように感じました。陽一と同じく、相手に折れてほしいという願望をこめて。
実際の作中では子どもを持つことを含んでいますが、営みをコミュニケーションの方法と考えたときに、すればいいという単純なものではなく、相手を思いやる気持ちが伴わなければその行為には意味はありません。