「あの子のほうが背が高い」「あの子のほうが足が細い」
SNSのなかの誰かの写真を見て自分と比べて落ち込むことは、インターネットと密接につながる現代ならではの悩みではないでしょうか。
アプリを使ってフィルターをかけたり、加工をすることが一般化したいま、SNS上の写真がリアルではない姿を映し出している可能性を知りながら、その人と自分を比較してしまうことがあります。
そんな現実と非現実が交差した世界で、インターネット上ではさまざまな人やものと触れ合うことを可能にし、同時に偽造のリアルを受諾する恐れも考えなければなりません。
SNSで見る「偽り」のリアル
インスタグラムでは、俗にいう“映え”にカテゴライズされるようなヘルシーフードから、きれいな景色、美術館やカフェのような“おしゃれ”空間で不意に切り取られたその人の写真など、いかにもプライベートを謳歌しているかのような写真が流れてきます。
プライベートだけでなく、仕事で成し遂げた業績やプロジェクトなどがポートフォリオのように並べられた投稿など、その人の成功体験や楽しい側面を気軽に見ることができます。
もちろん、「SNS上にいる自分」と「リアルな自分」を使い分ける人は多く、時間がなくてテキトーに作った料理や、写真写りの悪い自分の姿を投稿しようとする人は多くないはずです。
SNSの投稿がリアルから遠くかけ離れていることは承知しながらも、いままで気にする必要のなかった側面まで気にするようになり、このような投稿と自分の生活を比べて自分を卑下してしまうことが増えてきました。
「自分自身を愛そう!」という発信を見るようになりましたが、ありのままの自分の身体(ボディ)を前向きに愛そうというムーブメントである「ボディポジティブ」や「自己肯定感」「セルフラブ」などの言葉を聞くと、“意識高い系”だと感じてしまうと同時に、自分もその一部にいなければならないプレッシャーを抱くことがあります。
もちろん、意識が高いことは悪いことではありませんし、意識の高い環境に身を置くことでモチベーションを上げられる人もいると思います。
ですが、私の場合、一種の同調圧力を感じざるを得なく、仮にそこから外れると自分は認められないのではないかと感じてしまうのです。
自分自身を常に愛する必要はない
私は、幼少期から見た目でジャッジされることが多くあり、美しさを重視されることが当たり前な環境にいました。
小学校1年生からダンスを習い、週に5日間習い事漬け。さらに、休日はモデルオーディションやダンスコンテストに参加し、自分と周りが比べられることが当たり前の認識としてありました。
当時、私のなかでモデルやダンサーになりたいという意思はなかったものの、周囲が自分に期待するあるべき姿を幼いながらに理解し、それに応えようと日々過ごしていました。
周りのモデルを目指す友人は、小中学生で高価な洋服を身に纏い、自信ありげにカメラの前でポージングしていました。
彼女たちのような姿は自分にはないと自覚すると同時に、彼女たちのようにしなければいけないという抑圧も感じていました。
そうしなければ大人たちの目を引くことはできないし、生き残れないのだと。そして、そこから脱することで自分が“浮いてしまう”のだと、そのグループから外れて落ちこぼれることを拒んでいました。
あのときに抱えていた自分の感情を無理に変える必要はなかったのだと気づいたのは、大人になってからでした。
大学生のころ社会問題に触れ、幼少期に経験した似た出来事を思い出させる瞬間がありました。それが、外見や体型へのコンプレックスを愛するという意味の「ボディポジティブ」のムーブメントです。
この「ボディポジティブ」という言葉を聞くといまだにモヤモヤし、自分自身の自信のなさや感情を押し殺して、自分を好きでいようとしていた幼少期を思い出します。
決してボディポジティブな考えを否定するわけではありませんが、自分自身の体型が嫌いなら、それはそのままでいいと思います。
だって、周りの「コンプレックスを愛したら自分を好きになる!」というアドバイスは、実践しようとしても難しいことなのですから。誰だって、愛せるものなら人にアドバイスされなくても愛していますよね。