Choice.2 銀のボールペン(転職を選んだ私の10年後)
「おめでとう」
高くも低くもないトーン。はっきりと相手に聞こえる程度に、でも、大げさではない声量。第一声としては完璧だ。真依子は、心のなかで自画自賛した。言い終えたあとに、口角をあげてほほえむのも忘れなかった。
だが次に何を言えばいいんだろうと、真依子は思わず唾をごくり、と飲み込んだ。これが、画面越しでよかった。万が一会話に詰まってしまったら、Wi-Fiの調子が悪いことにして通話を切って、こころを整えてからまた繋げばいい。リモートワークというのは、こういうときに便利だ。
昔の恋
「ありがとうございます!すみません、私事でお時間をいただいてしまって」
「全然、気にしなくていいよ。新規事業開発部の丸山さんかぁ」
このご時世、付き合ったきっかけとか、いつから付き合っていたのかとか、そんなことは迂闊に聞けない。本来、部下の結婚などおめでたいことでしかないし、プライベートなことに不必要に立ち入るつもりもないのだけれど、本音では気になった。
「本当は直接お会いしたときにお伝えさせていただこうと思っていたのですが、次に出社するまでしばらく期間がありそうだったので、先に進藤主任にはお伝えしておきたくて」
真依子の部下である冨樫祐奈は、画面の向こうで眉をハの字に曲げながら控えめに言う。祐奈は6年前に新卒で入社した社員だ。少し早とちりをしてしまうところはあるものの仕事に無駄が少なく、効率がいい。本音を言えば、部下のなかでもっとも信頼している存在だ。
「おめでたいことなんだから気にしないで。でも、驚いたな」
そうだよね、詳細なんてわざわざ話さないよな。祐奈はとても常識的なタイプだから、なおさらだ。
「私もまさか、グループ会社の人と結婚することになるとは思いませんでした。人生、何があるかわからないんだなって、思います。入籍後も引き続きお世話になりますが、よろしくお願いします」
祐奈は、画面の向こうでおじぎをした。
丸山大紀。通話を切ったあと、真依子はその名前をつぶやいた。祐奈の雰囲気からすると、丸山からは何も聞いてないんだろう。真依子は安心した。もちろん、真依子からあえて祐奈に言う必要もない。
真依子と丸山が付き合っていたのは、もう5年も前のことだ。丸山とは、グループ会社同士の交流会で知り合った。真依子よりも2つ年上の丸山は穏やかで優しい性格で、なんでも器用にこなすタイプだった。どちらかというと、真依子のほうが丸山を好きだったと思う。付き合っているときはほんのりと、結婚も頭に浮かんでいた。
2年付き合って別れたのは、決定的なできごとがあったからではない。でも真依子の予想では、おそらく、向こうに好きな人ができたのだと思う。それは祐奈ではなかったかもしれないが、いまとなってはわからない。徐々に会話が噛み合わなくなっていき、連絡を取る時間が少なくなり、会う回数が減っていった。
別れてからも社内報や会社のデータ上などで丸山の名前を目にすることはあったが、そもそもグループ会社で勤務場所も違ったし、幸い仕事で会うことはなかったので、気まずくならなかったのはよかった。
でも、もしかしたら丸山と結婚して家庭を持つのかも、と思ったこともあったし、当時は30歳でまわりも結婚ラッシュでもあったから、あの別れは、真依子には少なからず応えた。
「丸山が結婚?しかも、真依子の部下と?」
秋の夜のテラス席は、少し冷える。足元にヒーターが置かれているのでそこまでではないが、真依子はストールを巻いたままでいる。路地を少し入ったところにある和風の創作居酒屋は、いつも盛況だ。店内が空くまでこの席で飲むことになったのだが、早希は「寒いなかで飲むのが逆にいいよね」と、楽しそうだ。
「そう、世の中って狭いよね」
「久しぶりに聞いたわ、丸山。節操なくない?よりによって真依子の部下と結婚って」
「部下になったのはあとからだからね、実際」
そう、祐奈は入社後、宣伝部にいたのだが、昨年異動があり、真依子の営業部に配属された。だから、付き合いはじめたのはおそらく、真依子の部下になる前からだろう。
「でもさ、曲がりなりにも営業部のなかで2人って。その部下の子って、どんな子なの?」
「それが、いい子なんだよね。仕事ぶりもちゃんとしてるし」
「なーんだ、いけすかない女だったらよかったのに」
確かにそうかもしれない。昔のことをどうこう言うつもりもないが、真依子は未だに、丸山のことが嫌いではない。
浩太もそうだ。風の噂ではいまは別の人と結婚して子どももいるらしいが、浩太のことも、別に嫌になって別れたわけではなかった。