誰もが幸せなクリスマスを迎えてほしい
この年のクリスマスは、康平にとって本当は「大好きな彼女と過ごす最高な一日」になるはずだった。なのに蓋を開けてみれば、「トラウマ」になってしまった。
元カノにしてみれば、幸せハッピーなクリスマスなのかもしれない。私の元カレだってそうだ。しかしその幸せは、誰かの悲しみや犠牲のうえで成立している。私はこのとき「幸せってそんなもんだったかな」と深く考えるようになった。
幸せが犠牲のうえに成り立つのなら、世の中のクリスマスは半分が幸せで、半分が最悪ということになってしまう。そんなはずはない。現に私が子どものころ、クラスメイトのなかでクラスメイトに最悪な気分を抱いている人はいなかった。
ただ幸せが犠牲で成り立つのも嘘ではない。だって私は子どもの喜ぶ顔を見るために、時間を犠牲にして一生懸命働き、稼いでいる。だけどそれを「嫌な犠牲」と思ったことはない。むしろ嬉しい犠牲だ。
康平だってそうだった。彼女のために、仕事の勤務時間を早めたり、おしゃれなお店を探して予約したり、お金という犠牲を払ってプレゼントを買ったりしたわけだ。その犠牲はすべて、彼女の笑顔を見るため。
クリスマスの印象は人によって違う。「リア充爆発しろ」なんて言葉があるくらいだから、いいイメージを抱いていない人も多いだろう。しかし康平のように、誰かのための努力が水の泡となり、トラウマになってしまう人は少人数であってほしい。
誰にでも平等に訪れるクリスマス。康平のあの苦い横顔を思い出し、できることなら、みんなが楽しい一日を迎えられたらいいのになと思うのであった。
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