お願い
「それどうしたの」
俺はとっさに、真新しいバッグを指さす。ハイブランドのロゴが描かれたそのバッグは、誰がどう見ても高級なものだとわかる。夏美の趣味やオシャレに口を出したくはなかったが、今回ばかりはどうしても気になってしまった。
「買ったの」
そのままクローゼットにバッグをしまう夏美。もうバッグには触れないで、と無言で圧をかけられているようだった。俺はそっと、スマホでバッグの値段を調べる。
「え!?それ40万円もするの?」
「そうみたいだね」
「そうみたいだねって、だってそれ買ったのって…」
それ、俺のお金だよねと言いそうになってやめる。
もしかしたら今回の買い物は、看護師時代の貯金を使ったのかもしれない。俺が毎月渡しているお小遣いをコツコツ貯めて買ったのかもしれない。でも、
「結構高い買い物だから、買う前に一言相談してほしかったな」
俺は本音をゴクリと飲み込んで、優しく告げた。俺の金だろと叫んでも、何もいいことはない。夏美が家庭を守ってくれているのはたしかなんだから。
「あーごめんね。気をつける」
こちらを一切見ずに返事をした背中を目で追う。そういうときは、目を見て謝ってくれよと言いそうになった。
さらに彼女の奇妙な行動は続く。
数日後、ダイニングテーブルの上に真新しい財布が置かれていた。それもまた、ハイブランドのものだ。
「もしかしてまた買ったの?」
「うん」
「この間相談してって言ったばかりだよね?」
「そうだっけ」
「そうだよ、これいくらしたの?」
「そんな高くないよ」
俺は夏美の言葉を聞きながらスマホで調べる。そこには10万円と書かれていた。
「十分高いだろ!」
思わず声を荒げてしまい、ハッとする。大きな声を出して驚かせたいわけじゃなかったのに。慌てて夏美のほうを見ると、知らん顔をしてスマホを見ていた。
「きょうちょっと、これから出かけてくるから」
「…は?」
夏美はスマホを置いて突然立ち上がる。俺はいま会社から帰ってきたばかりで、これからいっしょに夕食をとろうとしているところだ。
「友達と約束してるの。言ってなかったっけ」
「聞いてないよ」
「そっか、じゃあ行ってくるね」
「待って、夕飯は?」
「あー、適当に食べて」
呆然としている俺を置いて、彼女は家を出ていった。ストレスでも溜まっているのかと、自分に無理やり言い聞かせる。それとも…俺は何か悪いことでもしてしまったのだろうか。
友達と食事に行くのは別に悪いことじゃない。俺だって行く。でも、一言事前に伝えておいてほしかった。ほしいものを買うのだって、別に辞めろとは言わない。でも相談してほしかった。
俺はカップラーメンにお湯を入れながらぼんやり考えた。
変わってしまった妻
俺は、夏美の行動が一過性のものだと信じていた。
ただのストレス発散で、俺に怒っているんだと思っていた。
何かしただろうかと最近の行動を振り返るが何も思い浮かばない。1年前に話した子どものことだろうか。やっぱり、俺から話すべきではなかったのか…。それとも最近仕事の帰りが遅いから、ふてくされているのか?
いずれにせよいつかなおるだろうと思って3カ月経ったが、事態はさらに悪化していく。
「ただいま」
誰もいない部屋に帰るのももう慣れた。週に2回、夏美は夕方から出かけていく。帰ってくるのは深夜の3時。この行動が治る気配はいまのところない。
コートをしまおうとクローゼットを開けると、数カ月前からさらに増えたハイブランドバッグの数々。最近はアクセサリーも増えた。
俺の稼ぎや渡しているお小遣いだけで、こんなに多くの物を買えるとは思わない。
「あのさ、最近どこ行ってるの?」
一度気になって夏美に聞いてみた。
「友達と飲んでるだけだよ」
「そっか…全然いいんだけど、せめて夕食の用意してくれないかな。俺、仕事から帰ってきてご飯作るのは結構しんどいよ」
「はぁ?めんどくさ…」
「子どもがいたり仕事してたりしたら別だけど、それくらいやってほしい」
「うーん」
ハッキリしない返事。それ以上俺は何も言うことができず、話はそこで終わった。
結局そのあと、夏美が夕食を用意していったことは一度もない。