心が折れた、銀行での出来事
改名準備を進めるなかで、ある情報をインターネットで手に入れた。それは「保険証の名義が通称名であれば、銀行口座の名義も通称名にできる場合がある」というもの。
そのときすでに保険証の名義を通称名に変更する申請をしていて、それが通った旨の連絡を所属する健康保険組合から受け取っていた。
現物はまだ手元に届いていなかったものの、その日ちょうど銀行に用事があったので、「じゃあきょう窓口で聞いてみよう」と思ったのだけれど…。
入口で声をかけてきた銀行員に「性同一性障害のため、口座の名義を通称名に変更したいのですが」と訊ねたら、きょとんとされてしまった。
唐突で飲み込めなかったのだろう、いくつか質問をされてやり取りを重ねると、「少々お待ちください」と言って奥に引っ込んでしまった。しばらくすると奥のほうから、おそらく「上の立場の人」であろう年配の男性が出てきた。
「いやあ、急に言われて困っちゃったみたいで」と、先ほど担当してくれたかたを指してその人が言った途端、腹の底がカッと熱くなった。“困っちゃった”って、なに?ぼくの存在は“困っちゃう”ものなの?
いやいやさすがにそれは穿ちすぎ(うがちすぎ)だと、瞬時にその考えを頭から追い払う。
しかしそのかたは、なんとお客さんも大勢いるロビーで「性同一性障害によるお名前の変更ですか?」と、まあまあ大きな声で話し始めた。
さすがにギョッとして場所を変えてもらうよう小さな声でお願いしたのだが、通されたのはパーテーションのある窓口ではなく、ロビーの奥に設置された机のある席だった。
ぼくに奥の席に座るよう促したその人は目の前に座ると、矢継ぎ早に質問を繰り出した。
「証明する書類はお持ちですか?」
「いいえ、きょうは持っていません。ですがいま保険証の名義変更の手続きを進めており、保健組合から申請が通ったことと先日新しい保険証を郵送したことを伝えられたので、もうすぐ手元に届きます。もし変更が可能なら、後日その保険証を持って手続きに来ようと思ったんです」
「じゃあ現物を持ってから再度お越しいただけますか」
「わかりました。その際にほかに必要な書類ってありますか?」
「えっと、前例がまったくないので。そんな人いたことなかったですし、すごく珍しいことだから、ちょっと確認しないとわからないんです」
「前例がまったくない」「そんな人いたことなかった」「すごく珍しい」。この3つのワードが、癇に障った。
「そんな人いたことなかった」わけがないだろう。全国的に有名な、大規模な銀行だ。利用している人にセクシュアルマイノリティがひとりもいないなんてこと、あるはずがない。
通称名利用の希望を申し出た人がいままで一人もいなかっただなんて、そっちのほうが考えられない。そしてぼくたちの存在は、「すごく珍しい」わけじゃない。
臓物が冷えていくのを感じながら、言葉を選んで淡々とそう伝える。そのうえで、「ぼくがお聞きしたかったのは、まず通称名の利用が可能かどうかってことです。そして可能であるのならば、その際に持参するべき書類を知りたいんです」と再度説明した。
しかしその人の返答は、どうにも要領を得なかった。
「えっと、まず保険証を持ってきてもらわないと、可能かどうかもわからないので…」
「この支店に『前例』の人がいなかっただけで、通称名利用を申し出た人はいままでにいたはずです。そのときにどうだったか、調べていただけませんか」
「いや、ですから持ってきていただかないと…」
「できるかできないかも、わからないんですか? お調べしていただくことも?」
「ええっとその、ですから持ってきていただかないと…」
とにかくその人は「保険証を見ないと何も言えない」の一点ばりで、ぼくは次第に苛立っていった。保険証を見て初めてわかるってどういうこっちゃって感じだし、そもそも「通称名にできるかできないか」がなぜ調べられないのかがわからない。
埒があかず言葉が刺々しくなっていくぼくに、今度はその人が畳み掛けるように話し始めた。
「あのですね、ここは銀行なんで。きちんとした書類がないと、困っちゃうんですよ。そういうの簡単に許すと、悪用されたりとか、偽名で通帳作る人とか、詐欺を働く人も出てきちゃいますし。そういうのがあるとね、たくさんの人に迷惑をかけちゃうの。だからうんぬんかんぬんどうちゃらこうちゃら」
己の主張の正当性を証明しようと、こちらの口を塞ぐ勢いで息つく間もなく話し始めたその人を見て、もうめんどくせえやと思い、席を立った。
「偽名で通帳を作って詐欺を働く人と、ただ生きてるだけの我々を一緒にしないでいただきたい」と吐き捨てて。
ついでに言うと、その人が後半タメ口になったことも許せなかった。ぼくは髪色も派手でいっつもデニムにスウェットみたいな学生みたいな格好をしているから、よく見くびられて「おまえにはわからないだろうけど」的マンスプレイニングを受ける。
会話途中からにじみ出したその気配も非常に不快だったので、帰り際に出口までぼくを見送ったその人へ挨拶は返さなかった。
その後、銀行の問い合わせ窓口にも電話をかけてみたのだが、やはり「保険証を支店で直接確認しないと、可能かどうかさえわからない」という回答しか得られなかった。
いくらフリーランスで平日の外出も可能とはいえ、ぶっちゃけ何回も足を運ぶのは面倒くさいしできれば1日で済ませたい。だからあらかじめ、必要な書類を確認しておきたい。それだけだったんだけどなあ。
「いま話題のLGBTらしき人間が突然やってきてわけのわかんないことを言い出した。のちのち差別だと言われるのも怖いし、何がなんでも自分の正当性を証明しておかないと」と躍起になるのはわかる。あのお偉いさんっぽい中年男性のかたがまくし立てるように言い訳を並べ立てたのも、そういう気持ちからだろう。
でも、「困っちゃう」なんて言わないでほしかった。「そんな人いたことなかった」なんて、決めつけないでほしかった。
「前例がない」「すごく珍しい」と感じてしまうほどにマイノリティであることを理解しているのなら、申し出ること自体かなり勇気が要るものだって想像してほしかった。
知識がなくて、焦って、ついデリカシーのない言葉を口にしてしまったのかもしれない。だけど、いくら「差別的な感情はなかった」と主張しても、放った言葉が「差別」であったことは変わらない。
だいたいぼくは、「通称名に変えられないのなら差別だ!」なんてわめいたわけじゃない。ただそれが現段階で可能なのかどうか、それを聞きたかっただけなのだ。
そのうえで、できるのであれば必要な書類を教えてほしかった。それだけだ。心が折れてしまって、結局ぼくは通称名の使用を諦めた。
家庭裁判所への名の変更の申立には、使用実績を示す書類も求められる。ぼくはセクシュアルマイノリティであることを公表して仕事をしているから、クライアントさんにお願いして比較的容易にそれらを作成できた。
でも、それはぼくが特殊なだけだ。世間では会社に勤めている人のほうが多いし、職場にカムアウトしていない場合もある。そういうかたたちで、たとえばパートナーの扶養に入っていたりしたら、公共料金の支払いの証明も出すことができない。
つまり、「社会で通称名が浸透してる証拠」を提出することが困難な人もいる。そういう人のためにも、銀行口座の名義に通称名が使用できるようにならないだろうか。もちろん、必要な書類をしっかりそろえ、正式な手順を踏んだ上で、だ。
そのあと、2020年の11月24日に、ぼくは家裁から名の変更申立許可の通達を無事に受け取ることができた。奇しくもその日は、人種差別も受け、セクシュアルマイノリティかつ改名経験を持つスーパースター、フレディ・マーキュリーの命日だった。
銀行側からしたら、支店ごとにこういった出来事への対応経験の有無はあるだろうし、大きな組織ほどすぐに変わることは難しいかもしれない。
ただ今回起きた内容は銀行に限らず、マジョリティが属する多くのものからマイノリティが受ける対応のひとつで、いわば「あるある」ともいえるだろう。
セクシュアリティについて考える機会が増え、一歩ずつでも前に進んでいるいまだからこそ、この一件を読んだ皆さんが改めて「自分ははどう答えるのか?対応するのか?そして変わる必要があるのだろうか?」と考えるきっかけになれれば嬉しい。
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