「差別」ではなく、「区別」
生魚を食べることに抵抗のあるアメリカ人は減ったと思いますが、それでも「青魚」は「臭い」と煙たがられる傾向にあります(「ナマズ」を食べるアメリカ人に同じことが言えるのですが…と正直思ってしまいますが)。
つまり、「日本食」とうたっているレストランに少しも日本人が関わっていないのであれば、まず「本物」の「日本食」ではないのです。
中国料理も然り、韓国料理も然り、本物は「メニュー」を訳さないどころか、メニューの言語すら現地の文字で明記しています。ご丁寧にメニューを英語に訳すなんぞ、しないのです。
「どんな外国人もウエルカム」なレストランは、看板はまず「英語」。メニューももちろん「英語」明記。ウエイトレスも「英語堪能」の人を雇っています。
“母国の料理を愛する人”に本物の“その国の人だけがわかる”料理を出すお店というのは、看板を見ればわかります。英語表記などなく、まさに「看板読める人だけ来やがれ」と強気の姿勢が見て取れるのです。
韓国語が読めない私が、韓国語表記のレストランの看板をみて暖簾をくぐるなんぞ、一種の「掛け」。英語の話せない「オモニ」や「オッパ」が、「アンニョンハセヨ」と声はかけてくれますが、「韓国語わかりません」的な笑顔でニヤニヤとごまかそうものなら、「帰れ!」とは言われないまでも、露骨に「お前、何しに来た」的な態度に豹変するところも…。
メニューを出されても読めず、「これなんですか?」「これは何が入っていますか?」と謙虚に低姿勢で尋ねても、韓国語で何か言われるだけで怒られた気分になってしまう。
被害妄想かもしれませんが、ひょっとしたら「韓国語読めないなら、とっとと帰れ!」と言われたのかもしれないと思ってしまうのです。
メキシコ人に「おいしいメキシコ料理のお店は?」と聞くと、誰も知らないディープな場所のディープなお店を教えてくれると思いきや、外国人の多いファストフード店や有名どころのチェーン店を教えてくれます。
私もかつて、アメリカ人に「おいしいお寿司屋さん教えて!」と言われ、回転寿司を勧めた人間です。
これは結局、心のどこかで、「お前に寿司の何がわかる!?」と思ってしまっているからでしょう。「本物の握りを食うには10年早い!」と、やはり「アメリカ人でも好む」お店を紹介してしまっている自分がいます。
なぜか、寿司一筋、何十年という寿司職人が営む寿司屋を、どうしても紹介したくないのです。
伝統を守りたいのではありません。「マジな寿司、どーせ食えないっしょ?」という憶測と、「この味の深さがわかんのか?」という疑惑、そして「こんなに小さく、腹にも溜まらない米と魚の切り身が、なんでこんなに高いの?」とか、職人に対しとんでもないことを平気で口にしそうで恐ろしいというのもあります。
悪気はなくとも、アメリカ人は「本音」をぶちまけます。本格的な日本食レストランで、「サバ定食」を食べてみたいと言い切ったアメリカ人の友人が、サバを口にして、開口一番「臭い」と言った…私は、その経験がきっとトラウマになっているのだと思います。
私に言う分は構いませんが、アメリカ人はサービスについても、味についても正直な意見を、お店のため、お店の将来のためにはっきりとお店の人に伝える傾向にあるのです。
口に合うか合わないか…これは「国籍」関係なく、個人の味覚の問題。だけど、やっぱり「本物」に舌鼓を打つ人と味を分かち合いたいという気持ちは、レストラン経営者も同じでしょう。決して差別ではありません。
アメリカ人の好みに合わせたロックンロールな店構えの寿司屋に、日本人はあまりいない。やはり、クラブのような寿司屋には行きたくはない。こういうことです。
日本の日本人の好みに合わせた中華料理は間違いなくおいしい。ただ、本場の味を知る中国人はそこにいますか?
多種多様に「偽物」も「本物」も堪能できるこの国は「差別はいかん!」と言いながら、やっぱり「味のわかる人オンリー」というやんわりとした「区別」はしているのです。
差別ではない。区別。
中国人の中国語を話せる友人とディープな中国料理店に行ったことがあります。メニューにないものでも材料と調理法を言えば、簡単になんでも作ってくれました。私一人で食べに行っても、決してこういうサービスはしてくれませんよね。
いろいろと食べてみたいですが、できれば「本物」にこだわりたい。本物を知るには、ご当地出身の友人と出かけるに限ります。
いろんな国の料理をたしなんで新しい発見に歓喜したい…気持ちはわからんでもありませんが、その好奇心による侵略のお陰で「偽物」が多く出現している事実を、みんな知りません。
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