出産前日
妊娠10カ月を迎えても、雄二と健太郎の自宅宴会は続いていた。
週末になると、かならずお酒を買い込んでやってくる。金曜日の夜から始まる宴会は土曜日未明まで続き、酔っ払ったふたりはそのまま土曜日の昼過ぎまで寝て、夕方までダラダラと過ごし、夜にやっと帰っていく。
もう、怒る気力もなかった。
2年前に雄二とペアローンを組んで買った我が家。将来は家族の明るい笑い声が響くんだと思っていた。
しかし、いま響いているのは雄二と健太郎の笑い声だけ。たまに来るなら構わないのに毎週末なんてと、私は頭を抱えるのだった。
陣痛がはじまったのは、そんな金曜日の夜11時。腰の周りで、じんわりと痛みが波打っていく。徐々に痛みが大きくなり、痛む感覚も狭くなる。
ベッドに寝転んだり、座ったりして、痛みを逃せる体制を探してみる。ひどい生理痛のような、内側から骨盤をじわじわ押し広げられているような、腰に重りが乗ったような、にぶい痛みが押し寄せる。
陣痛の来ている間は何も考えられなかった。痛みがおさまる少しのタイミングで、私は病院に行くための準備を進める。
陣痛が10分間隔になったあたりで病院に電話すると、もう少し待ってから来てもいいし、心配ならもう来ても大丈夫ですよと言われた。
「雄二」
入院バッグを持って寝室を出て、笑い声のする客間を開ける。もうそろそろ予定日だから、飲み会は控えてほしい。
そんな私の願いもむなしく、雄二は家に健太郎を呼んだ。家にいればいいでしょ?と。
「ねぇ雄二、陣痛きたから病院行ってくるね」
「ええ?何ー?」
ゲラゲラと笑いながら健太郎とテレビゲームをする雄二を見て心底がっかりする。
家に健太郎を招いた挙句、妻が出産間近だというのに泥酔している夫。嫌いになりそうだった。
「車乗ってっていいよ!鍵、玄関にあるからぁ」
「は?運転できるわけないでしょ。陣痛来てて運転なんて危ないよ」
「あ、そっか、痛いのか!でもいつも通りに見えるけど!ねぇ~」
へらへらと笑う雄二を見て、健太郎も笑いだす。
「出産頑張ってくださぁ〜い!」
ひっぱたいてやろうかと思った。そのまま客間のドアを閉め、呼んでおいたタクシーに乗り込む。
「お客さん、どこまで?」
「清水産婦人科までお願いします。…いたたた」
「あら、陣痛?そりゃ大変だ、安全運転でいくからね。何かあったらすぐに言ってね」
初老の運転手はバックミラー越しににこりと笑って、車を出発させた。
雄二よりもうんと頼りになる。雄二への怒りと虚しさとがっかりさを感じながら、私は産婦人科へと向かった。
病院についてからも入口まで荷物を持って、「足元気をつけてね」「頑張ってね」とにこやかに応援してくれたタクシーの運転手を、私は生涯忘れないだろう。
「本当に、すみませんでした」
土曜日夕方。無事に出産を終えた私は、やっと病室に戻ってきていた。
立ち会い出産すると話していたものの二日酔いで来ることができず、雄二がようやく病院に来たのは生まれてから2時間後。
むくんだ顔と寝ぐせの残った髪の毛で病室に入ってきた。
「…ありえないと思う。正直言って、幻滅した」
頭を下げる雄二をじっと見つめて、私は冷たく声をかけた。
全室個室の産婦人科を選んでよかった。集団部屋だったら「大丈夫だよ、気にしないで」なんて気を遣って言ってたかもしれない。
「本当にごめん。俺、最低だった」
「そういうの、もっと早く気づいてよ」
「ごめんなさい…もうこんなことしない。絶対に梨香子に迷惑かけない」
「気持ち入れ替えてよ。あなた、パパになったんだよ」
「うん、わかってる」
グッと唇を真一文字に結び、真剣な顔でこちらを見つめる雄二を見て大きなため息が出る。
さすがにもう心を入れ替えたのだろう。育児には真剣に取り組んでくれるに違いない。もう出産前のような思いをする必要はないはずだ。
一緒に子育てを楽しんで、ツラいときは支えあって、家族の時間を何より大切にする。
そんな私の願いが砕けたのはたったの1週間後だった。
「奥さんおかえりなさーい。いない間の家事は、僕が全部やっておきましたから。何かあったらこれからも俺に任せてくださいね!」
退院して雄二と家に帰ると、誰もいないはずの家に健太郎がいた。
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