2年前、幸せな家庭を夢見て建てた新築一戸建て。しかしその家に、家族でもない赤の他人が居座るようになった。
「私はただ、産まれてくるこの子と夫と3人で楽しく暮らしたかっただけなのに」彼女の苦悩の日々が始まる。
第1話
- 登場人物
- 梨香子:この物語の主人公。妊娠7カ月
- 雄二:梨香子の夫
- 松尾健太郎:雄二の同僚。31歳独身
後悔
午前1時を過ぎたころ、リビングにはそいつの大きなイビキが響いていた。
夫の雄二が泥酔した松尾健太郎を連れ帰ってきたのは、いまから30分ほど前。
家に帰そうとタクシーに乗せてみたが、まともに住所を言えなかったので我が家に連れ帰ってきたという。
雄二の同僚である健太郎は一人暮らし。へべれけな状態で家に帰って、世話してくれる人なんていない。30を超えたいい大人なんだからほっとけばいいのに、雄二はそんな健太郎を放っておくことができなかったようだ。
「ほんとお人よしだよね。もう31なんだよ?無茶な飲み方したのが悪いし、わざわざ世話する必要なんてないでしょ。ひとりでなんとかするって」
「でもさ、もし人様に迷惑かけちゃったらとか、家のカギ閉めないで寝て泥棒が入ってきたらとか、いろいろ考えるわけじゃん。そしたら放っておけないよ」
「普通そんなことまで考えないよ…」
心配そうな顔で健太郎を見つめる雄二を横目に、私はリビングの電気を消す。雄二もリビングで寝るらしい。
私はポコポコと動くお腹を優しくさすり、階段を上った。
きょうで妊娠7カ月。お腹はどんどん大きくなって、私も母親になる準備をしているのに、雄二はちっとも変わらない。夜中まで同僚と飲み歩いて、泥酔した同僚を深夜に連れて帰ってくる。
せっかくよく眠れていたのに、雄二と同僚の行動で起こされてしまった。そんなイライラを感じつつも、まぁ仕方ないかと考えて寝室のドアを開ける。私は、優しい雄二を好きになってしまったのだ。
このとき、泥酔した同僚を迎え入れる夫に少しでもきつく注意しておけばよかった。
健太郎が泊まった日から、毎週末のように健太郎はうちに泊まりに来るようになった。しかも泥酔した状態で。
いくら泥酔しているとはいえ、次の日にはある程度酔いがさめている。
泊まりに来ている以上シャワーも貸したほうがいいだろうし、朝ご飯も用意したほうがいいだろう、あれこれ世話を焼いた私も悪いのかもしれない。
ソファーで寝るのは体を痛めるだろうから客間に布団を引いておこう、寝巻も用意しておこう、水を枕元に置いておこう。余計なことなんてしなければよかった。
「ごめん梨香子、きょうも健太郎が酔っぱらっちゃってさ。いまから10分くらいで着くから、布団敷いておいてくれる?」
「ええ…?いまから?私寝てたんだけど…」
「ごめんごめん!頼むよ!じゃあね!」
ブツ、と切られた電話をボーっと見つめる。
妊娠8カ月になってますます重くなったお腹のせいか、私の眠りは日に日に浅くなっていった。せっかく寝付けたと思っても、雄二の電話で深夜に目が覚めてしまう。
よいしょ、とベッドから体を起こす。お腹が重い。当たり前だが、子どもは日を追うごとに大きくなっている。その分私の身体も重くなる。幸せな重みだが、幸せだけでは片づけられないしんどさがそこにある。
あしたの朝はパンを焼いて済ませようと思ってたのに、お客さんがいるなら何か作らないと。二日酔いだと味噌汁が飲みたいって言うだろうし、いまのうちに仕込んでおこう。
「めんどくさい…」
小さく呟いて寝室を出る。真っ暗な階段をゆっくり下りながら、雄二と健太郎への怒りがふつふつ湧いてくる。
許してしまった自分も悪いのだろう。しかし、妊娠中の妻がいるにもかかわらず深夜まで飲み歩く雄二と、人の迷惑を考えずに家に泊まりに来る健太郎の方がよっぽど悪いのではないか。
思い違い
そんな私の我慢が限界を迎えたのは妊娠9カ月目のこと。
いつものように連絡をしてきた雄二に、「飲み歩くのもいい加減にしてよ」と怒鳴り、家の鍵のチェーンを閉める。
さすがに反省したようで、その日健太郎はタクシーで自宅に帰ったし、雄二も「ごめんね」と謝ってきた。だからもう一件落着、これで済んだと思っていたのだ。
「お邪魔しまーす」
金曜日の夜。さすがに先週あんなことがあったばかりで、飲みになんて行かないだろうと思っていた。
たしかに雄二は飲み会に行かなかったが、その代わりに健太郎がうちにきた。
「えっ?私聞いてない」
健太郎がくるなんて、聞いてない。夕食の魚をちょうど2枚焼き終えたばかりの私は、玄関に突っ立っている雄二と健太郎を見て唖然とする。
「あれ、言ってなかったっけ?外で飲むのがダメならさ、家で飲もうかなって話になったんだ」
雄二は缶ビールを入れたコンビニ袋をかかげ、ニカッと笑う。
「ねぇ…そういう問題じゃないでしょ。私、体がしんどいから遠慮してほしいんだけど」
「だからさ、梨香子に迷惑かけないように客間で飲んでるから。つまみも買ってきたから気にしないで。夜も泥酔してても放っておいてくれていいから」
「いや、そんなこと言われても…」
混乱する私をしり目に、ふたりは家に上がっていく。
「奥さんすいません、お邪魔します!」
「あのさ…健太郎くん、こんなこと言いたくないけど、毎週毎週困るの。正直言って迷惑。私いま妊娠9カ月で体調が悪いこともあるし、いつ何が起きるかわからない状態だし、こんなことされたらゆっくり休めないし…」
「わかった、羨ましいんでしょう?」
「は…?」
頭に血が一気に上るのを感じた。
「いま妊娠中で飲めないから、僕たちが羨ましいんですよね。安心してください!そんなことだろうと思って、ノンアル買ってきました!」
健太郎は自分の持っていたコンビニ袋から、ノンアルコールチューハイを1缶取り出す。
「これで奥さんも寂しくないでしょ?一緒に宴会しましょう!ね!」
「そういう問題じゃないでしょ…私の話わかってる?」
くつくつと煮えたぎるような怒りをなんとか抑える。お腹が張っている。
「まぁまぁ梨香子、怒ったら赤ちゃんによくないよ!」
怒りを抑える私をなだめるかのように、雄二が私の肩に手を置いた。
震えが止まらない。全身が小刻みに震える。言葉を出そうとすると、すべて震えてうまく話せない。
「…もう寝る」
なんとか言葉を絞り出す。そのままキッチンに戻り雄二のご飯にラップをかけ、冷蔵庫にしまった。