平和な我が家
「ただいま」
20:30
居酒屋から地下鉄でたった2駅のところにあるマンションの4階が、我が家だ。静かに玄関を開けると、いままさに寝るところだったのであろう、パジャマ姿の我が子が走って出迎えてくれる。
「ママ!おかえりなさい」
7歳になったばかりの梓が、一昨日買ったフリースのパジャマを着てニコニコしていた。
「ママ、どう?似合ってる?」
「うん!梓は何色でも似合うねぇ」
「よかった~!パパ、ママ似合うって!」
梓は大声でリビングに向かって叫ぶ。
すぐに夫の和明がリビングのドアを開け、「それはよかった」と声をかけてくる。歯ブラシを持っているところからさっするに、ちょうど梓の歯を磨こうとしていたのだろう。
「おかえり、真琴。お風呂温まってるよ」
優しく微笑みながら、和明は梓を抱っこしてリビングに戻る。そんな和明の笑顔に「ありがとう」とうなずきながら、私は靴を脱ぐ。
こんなに優しい和明でも、元カノに未練はあるのだろうか。
「え?元カノへの未練?」
思い切って和明に聞いてみると、彼は呆れたように笑った。
「うん。きょうね、男の人って一度自分のことを好きになってくれた女性は、ずっと自分のことを好きだと思ってる人もいるよねって話になってさ。和明はどうなのかなって思って」
「あー…そうだな」
考え込む和明の様子に、少し胸が痛む。しかし、その思いはすぐに消えた。
「いま真琴に言われるまで、俺元カノの存在自体忘れてたわ」
「え?」
「なんか、自分の記憶のなかで好きになった人が、真琴しかいない状態だった。そういえば昔付き合った人もいたけど、全部忘れちゃったなって感じ」
「何それ」
「真琴も、元カレのこと思い出して懐かしんだりする?」
「…いや、ないかな。名前もあいまいな人とかいるかも」
「だろ?そういう人にいまさら会ったところで、『まだ俺のこと好きでいてくれてるのかな?』なんて思わないし…そもそも、人の気持ちって変わるものじゃん。俺だってこうして生活が変わってるのに、相手がまだ同じ気持ちを抱き続けているわけないでしょ。相手がまだ自分のことを好きだって思うのは、相当自分勝手な人だよね」
「そうだよねぇ」
和明の言葉にホッとして、ちょっと申し訳なくなる。夫はそういう人じゃない。そう思っていたのに、少しだけ信じきれなかった自分が嫌になる。
「ってか、真琴来月同窓会だよね」
「うん、そうだよ」
「もしその説が本当なら、同窓会で元カレに言い寄られちゃうかもよ?」
ニヤニヤしながらおもしろがって顔を近づけてくる和明に、私は思わずデコピンしそうになる。
「私が既婚者だと知ってもなお言い寄ってくる男性とかヤバすぎだから。そんな男がいたら、同級生みんなでコテンパンにこらしめとく」
冗談でそんな言葉を返したが、このときはまだあんな事件が起きるなんて思っていなかった。