内側からぐにょぐにょと皮膚を押し上げるそれは、ちいさいながらすでに人間の手足のかたちをしていた。
先日、臨月を迎えた旧友の自宅を訪ねた。以前よりも彼女のお腹はふっくらとしていたので、「もう動いたりするの?」とぼくは聞いた。すると彼女はにやりと笑って、マタニティウェアをべろんとまくって見せてくれたのだ。
友人に促されて、おそるおそるまあるいお腹に触れてみる。ちいさな住人はすぐに気づいたようで、ぼくの手のひらをぐうーっと押し返してきた。
いとおしい、と素直に思った。だいすきな友人が宿した、新しい生命。きっと生まれてきたら、ぼくもその子を無条件に可愛がるんだろう。
「自分の体のなかに自分とは違う生き物がいるって、変な感じだよ。エイリアンみたい」なんて、いささか倫理観の欠けた表現で我が子をたとえた彼女は、とてつもなく幸せそうだった。
でもその瞬間、ひだまりみたいな温かな気持ちに影が差した。もし仮に自分が妊娠したら、彼女と同じように幸福で胸がいっぱいになるのだろうか。それとも…。
自分自身の暴力性がこわい
自らが妊娠する可能性を、考えたことないわけがない。だってぼくの身体は、そのための器官を有しているから。
ノンバイナリー(男女のいずれにも属さないと考える性自認を持つ人)を自認しているぼくは、胸オペ(乳腺摘出、乳房切除のこと)こそ予定しているが、子宮や卵巣の摘出はいまのところ望んでいない。
嫌悪感がないといえば、もちろん嘘になる。月経は憂うつだし、己の身体の女性性を突きつけられてうんざりしたりもする。
でも、生殖器の形状そのものには、さしてこだわりがない。服を着ていればわかんないし、普段は意識しない部位だからってのもあるだろう。だからぼくにとっては、ふたつの胸のふくらみのほうがよっぽど異物なのだ。
ノンバイナリーであることと妊娠することは、言うまでもなく矛盾しない。子を宿す「女性」以外の人々が、実際に多くいることも知っている。
それこそ(出生時は女性に割り当てられた)男性の出産だって、ニュースでもしばしば取り上げられてるし。
そのためぼくが真におそれているのは、妊娠によって突きつけられる性別違和よりもなによりも、自身の暴力性なのだ。
虐待サバイバーなら一度は耳にしたことのある「虐待は連鎖する」という言説を、ぼくは身をもって体験しているからである。
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ぼくの父親もまた、被虐待児だった。どうやら本人にその自覚はないらしいけど、親族からの話を聞く限り、両親から苛烈な物理的・身体的暴力を受けていたことはまず間違いない。
ぼくはすでに実家を出ていて父とはもう2年近く顔を合わせていないが、振り返ると彼の言動は虐待サバイバーのそれに当てはまる。
いつだったか父親は、「必ず親父が怒り出すから、食事の時間が本当に苦痛だった」と漏らしていた。それを聞いたとき、背筋が凍った。なぜなら父親もまた、食事の時間に些細なことで説教を始める癖があったからだ。
顔を思い切りゆがめて、いかに辛かったか語るのに、自らもまったく同じように食卓で子を怒鳴りつけた。
ぼくや弟に向かって箸を飛ばし、食器を投げ、水をかけ、テーブルのものを床に叩き落としてヒステリーを起こす父は、自身の父親を再演していたことに気づいていたのだろうか。
あの無自覚さが、ぼくは怖い。こうありたくないと強く望んでいたはずの姿に、絶対にこうはならないと心に誓っていたはずの人間に、自分もなってしまうかもしれない。
子どもを持つことを考えると、その恐怖で一歩がすくむ。ぼくにとって妊娠について考えることは、自分の深淵(しんえん)をのぞき込むのと同義なのだ。