「好き」を仕事にするまで
午後7時。店を閉める準備をしていると、入り口に人の気配を感じた。
「ごめんなさい、もうお店おしまいで」
そこには、商店街にあるケーキ屋の袋を下げた早希の姿があった。
「お疲れ。仕事で近くまで寄ったから、ちょっと見に来ちゃった」
閉店後の店内は、とても静かだ。営業中とは違う雰囲気が少し秘密めいた感じがして、真依子はわりと気に入っている。いま思えば昔から、誰もいない放課後の教室とか、そういう場所が好きだった。
「やっぱり、いいお店だね。ここ」
コーヒーの入ったマグカップを両手に持ち、店内を見回して早希が言う。
「ありがとう」
「真依子はすごいよね、30過ぎてから自分でお店やろうって決めて、ほんとに始めちゃうんだから」
浩太とはあれから結婚を前提に付き合っていたけれど、1年も経たないうちに別れてしまった。「結婚」という未知のことを考えると急にブルーな気分になってしまったうえ、文房具メーカーの営業もまさかの最終面接で落ち、そのころの真依子は塞ぎ込んでいた。
そんなとき、浩太が会社のプロジェクトで若手のリーダーに抜擢され、浩太に対して内心イライラすることが増えてしまった。そして、いつしか自分から距離を置くようになったのだ。20代だったこともあり、恋人を応援できるほど自分に余裕がなかったのだと、いまは思う。
浩太と別れてからもしばらくはしょんぼりしていたが「せっかくだから気ままに自分が好きなことをやろう」と決めた。会社の休みを利用してはひとり国内外へ旅行に出かけ、そこでコツコツと、大好きな文房具や雑貨を買い集めた。
30歳になったころ、真依子は「自分の好きなものをそろえたお店とか、やれたらいいな」とふと思い、働きながら起業セミナーに通い、貯金をした。そして10年以上お世話になった会社を辞め、この店をオープンしたのだ。その間、何度か男の人と付き合ったことはあったが、結局すべて別れてしまった。
これまでひとりで見てきたもの、ひとりで行った場所、ひとりでやってきたこと、ひとりで考えて決めたこと。その経験は、ぜんぶ真依子だけのものだ。いいことも悪いことも。きっと、結婚していたり子どもがいたりしたら、とても同じことはできなかっただろうと思う。そんなに器用なタイプではないことを、真依子は知っている。
「まぁ、大変なこともあるけど、なんとかやっていけてるよ」
真依子は言う。仕入れも店番も全部自分ひとりでできる規模だから、やっていくことができているともいえる。