恨み
梨香子はそっとドアから離れ、慌てて夫を呼びに行こうとした。
「何してんの」
突如声をかけられ、梨香子は飛び上がる。
振り向くと、不思議そうな顔の夫が玄関に突っ立っている梨香子を見つめていた。
「あ、あの…」
必死に状況を説明しようとして、ふと困ったことに気づいてしまった。
玄関先で話していたら、廊下にいる管理人に聞こえるのではないだろうか。些細な物音を察知して、また玄関に耳をつけられるのではないだろうか。
リビングで話そう、リビングに行こう、そうしよう。そう思っているうちに、気づけば夫がのぞき穴を覗こうとしていた。
「何、なんかいるの?」
「あ、ダメ…」
夫がのぞき穴を覗いた瞬間、夫は「わぁ!」と大きな声を出し、しりもちをついた。
「か、管理人が…」
震える指でのぞき穴を指す夫の顔がみるみる青ざめていくのがわかった。
後から聞いたところによると、管理人はドアの前に立って、こちらをニタァと笑いながら見ていたらしい。
次の日管理人に「お皿割れて残念でしたね」とニヤニヤ笑いながら言われたとき、梨香子は本気で管理人を殴り飛ばしてしまおうかと思った。
そんな2週間前の出来事を思い出しながら、梨香子は管理会社から送られてきたメールを開く。
管理人の奇行には、梨香子だけではなく複数の住人が気づいているようだった。
管理人が出社してくる前、ゴミ捨て場で梨香子が思い切って声をかけた住人たちは、みんな「管理会社に相談してるが取り合ってくれない」と嘆いていたのだ。証拠がないから、と。
ならば証拠を集めればいいんだと梨香子が思い立ったのがちょうど1週間前。
そして3日前、梨香子はついに管理人がドアに耳をくっつけて会話を聞いている様子を動画におさめることができた。
のぞき穴からずっと、スマホのカメラを向けていた地道な行動が功を奏したのだ。
証拠を差し出されたのだから、管理会社も動かないわけにはいかないのだろう。謝罪のメールが住人たちに届き、今月いっぱいで管理人を解雇すると連絡が来た。
これで来月からは穏やかな暮らしが待っているはず、そう思った、その日の夜だった。
夜22時、梨香子と夫が晩酌を楽しんでいたときのことだった。
突如玄関ドアの方から、ガチャガチャと鍵を開けようとする音が聞こえてくる。
「何?何の音?」
血の気が引くような感覚がして、梨香子は夫と共に玄関へ向かう。
「梨香子は後ろに下がってて」
「う、うん」
玄関に到着すると、執拗にドアノブが回されている。そのうえ鍵もあけられていた。
完全にドアが開かなかったのは、ドアの上部についている二重鍵まではあけられていなかったからだ。
「泥棒…?」
梨香子が小声でつぶやくと、何かを察したのか、夫はしぃ、と人差し指を唇につける。
そしてゆっくりのぞき穴に目を近づけると、そこには血走った眼で玄関を開けようとする管理人の姿があった。
結局、その後管理人は梨香子の通報によって駆けつけた警察に捕まり、住居侵入の罪に問われることとなった。
合い鍵を保管するという契約はなかったはずだが、管理人はどういうわけか、マンション全戸の鍵を持っていたらしい。
管理会社のずさんな鍵の保管方法も問題となり、管理人はもちろん、管理会社やマンションのセキュリティシステムも見直される事態となった。
警察に連行される前、管理人が「覚えてろよ」と叫んだ声が、いまも梨香子の耳にこだましている。
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