主人公・梨香子は、夫の転勤で引っ越し。新居となるマンションは、子育てがしやすい環境の整った最高の立地にあった。
古くても、住めば都。そう思って生活を始めた梨香子だったが、このマンション、管理人の様子が少しおかしいようで…。
会いたくない人

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梨香子は買い物袋をぶら下げながら、慎重に自宅マンションの様子をうかがっていた。電柱に隠れてじろじろとマンションを見る様子は、一見すると不審者である。
しかし梨香子は、たとえ不審者と思われたとしてもいいと思えるほど会いたくない人物がいた。
「あれ、佐倉さん。どうなさったんですか」
突如背後から声をかけられ、梨香子は飛び上がる。
振り向けば、いまのいままで梨香子が「会いたくない」と思っていた人物がそこに立っていた。
「か、管理人さん。こんにちは」
梨香子の住むマンションの管理人は、べたっと張り付いたような笑顔でじっと梨香子を見つめている。
ここは、マンションから30m程離れた歩道。管理人がここで箒と塵取りを持っているのはいささか不自然である。
身長170cmの梨香子よりも小さな管理人は、真っ黒な目で梨香子の顔を見上げた。
「そんなにマンションを観察して、何かありましたか?」
「いえ、あの、さっき蜂が飛んでいたものですから、怖くて」
「へぇ…」
蜂なんていないですけどね、そんな管理人の言葉が聞こえてきそうだった。
梨香子は「それでは」と一礼して足早にその場を去ろうとする。
「でも佐倉さん、虫大丈夫ですよね。昨日もご自宅に入ってきた蛾、追い出していたじゃないですか」
管理人の不気味な言葉が聞こえ、梨香子は足を止めそうになる。どうしてあなたがそんなこと知っているの、気味が悪い、叫びだしそうだった。
梨香子は一切振り向かず、聞こえないふりをしてマンションに駆け込んだ。
梨香子が夫の転勤で先月引っ越してきたマンションは、閑静な住宅街の中にたたずむ、13階建ての中古分譲。
周りのマンションに比べれば古さは目立つが、小学校から歩いて5分、駅まで15分、公園が多く子ども連れがたくさん住んでいる地域なので、古さなどどうでもよかった。子育てしやすく住みやすければ、もうそこは都である。
いまはやりのリノベーションもした。外見は古くても、部屋に入れば新築と変わらない美しさだった。
大満足の引っ越しだ、と思った。管理人の存在を除けば。
知りすぎている管理人

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ここの管理人はおかしかった。住人の情報を知りすぎているのだ。
職業や家族構成なんて基本的な情報ではない。その日、その家庭で起きた、その場にいた人しか知らないようなことを知っているのだ。
「昨日の夫婦喧嘩は解決しましたか?」
「テストの点数、悪くて怒られてかわいそうに」
「お母さんに乱暴な言葉使っちゃダメだよ」
管理人から投げかけられた言葉が、いまも耳から離れない。
梨香子はエレベーターで9階に上がり、背後を確認しながら自室の903号室へ入る。ドアを閉め、鍵をかけ、ようやく息を吐いた。
先ほどのニタリと笑った管理人の顔を思い出し、鳥肌が立つ。そして同時に、忘れもしない、2週間前の出来事を思い出した。
2週間前の土曜日、皿洗いをしてくれていた小学5年生の息子、剛が誤って皿を割った。
陶器の割れる音に驚き、トイレ掃除の手を止めてキッチンに向かうと、そこには申し訳なさそうな顔でシンクを見つめる剛がいた。
「お母さん、ごめんなさい。お皿割っちゃった」
「怪我してない?大丈夫?」
「うん」
「よかった。割れちゃったのは仕方ないよ。ちゃんと報告してくれてありがとう」
「うん。次から気をつける」
剛と共に割れた皿を片付けていると、ベランダで洗濯物を干していた夫がやってくる。
「え!そのお皿割れちゃったの!?」
大声を出す夫に、元気を取り戻していた剛が再びしゅん、となった。
夫が大声を出す理由は梨香子も剛もわかっていた。その皿は、去年3人でテーマパークに旅行に行った際に買った限定デザイン。思い入れのあるお皿だったからだ。
「えー、残念…」
「わざと割ったわけじゃないんだから」
「でもさぁ」
ぐちぐちと言い出す夫と、顔が曇っていく剛。気づいていない様子の夫に、梨香子は堪らず声をかける。
「そういう言い方、無意識に人を傷つけてるって気づいたほうがいいよ。もう剛は反省したの、ごめんなさいって謝ってくれたの。それをあなたが蒸し返してぐちぐち言うのはおかしい」
そこでようやく剛の顔色に気づいた夫は、慌てて剛に謝りはじめた。
それと同時に、玄関から、ガタンと大きな物音がした。まるで玄関ドアに何かがぶつかったかのような音だった。
「何?いまの音」
梨香子が首を傾げると、夫がいまの失態を挽回するかの如く「俺に任せて」と玄関へ向かう。
「管理人さんが廊下掃除してるみたい、ドアにぶつかっちゃったんじゃないかな」
「そう」
それから3分ほど経って、割れた皿を片付け終わった梨香子はトイレ掃除へと戻った。
そして玄関の目の前にあるトイレにたどり着いたとき、梨香子は玄関の向こうで、何か布がドアにこすれるような不審な音を聞いた。
すす、すす…と、ドアに布がこすれているような、そんな音。
管理人が掃除している、そう夫に言われたのを思い出して納得したものの、梨香子はなんだか廊下が気になって仕方がなかった。掃除で、こんなに玄関ドアに布がこすりつくことなんてあるだろうか。
梨香子は息を殺して玄関ドアに近づき、そっとのぞき穴から廊下の様子を確認した。
ところが、そこに管理人はいない。
なんだ、いないじゃないのと思った次の瞬間、のぞき穴の目の前にヌルリと管理人が現れた。
「…っ!?」
驚いてのぞき穴から離れ、口を押える。この人、廊下にいなかったはずなのに、どうして突然うちの部屋の前に出てきたの?
梨香子はもう一度のぞき穴から廊下を覗く。
そこにはジッと梨香子たちの部屋を見つめる管理人が目の前に立っていた。
管理人はゆっくりと耳をのぞき穴に近づけ、そのまましゃがみ、姿が見えなくなった。のぞき穴から見えるのは、またしても、誰もいない廊下だけ。
バクバクと心臓が鳴るのが、梨香子にはよくわかった。
数秒ほどして管理人が再びヌルリとのぞき穴の前に現れ、次は向かいにある905号室の方に体を向ける。そして管理人はそのまましゃがんで、905号室のドアに耳をくっつけた。