「セクシャル・ハラスメント」という言葉は、かつてアメリカの大統領にまで突きつけられました。アメリカの著名人(女優)たちは、プロデューサーを訴えたりすることも多く、いまでもこの言葉はよく耳にします。
それにしても日本は、この「ハラスメント」という言葉を乱用しているように思うのです。インターネットで見るだけでも、日本には50種類以上のいわゆる「ハラスメント」の種類があげられていることに驚きます。きょうは、「日本のハラスメント」と「アメリカのハラスメント」の違いについてお話します。
「○○ハラスメント!」は、負け犬の遠吠え?
最近でも「就活ハラスメント」という言葉は新しい。なんでも、就活中の面接において、面接官である社員が、面接を受けに来た学生に「彼氏はいるの?」とか「結婚しないの?」などくだらない質問をしたとか。
そもそも、「ハラスメント」というものは、他者に対する発言・行動などが本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えること…という定義に成り立っています。
相手の弱みにつけ込んで優位な立場に立とうとする行為もまさしくハラスメントであり、「就職したい」という願望のある就活生に対して、言葉を知らない低俗な社員が面接を仕切ってしまったのでしょう。
だとしても、なぜ訴訟を前提にせずあとになって訴えたり、記者会見をしたり、報道をするのでしょうか。「この会社に就職したい!」という夢や理想があって面接まで努力してたどり着けた場で、愚かな面接官の「ハラスメント」に値するような、不快に思う質問を投げかけられたとしても、面接で落とされることを恐れ、我慢したり、その場しのぎの対応をすることは、必要なことなのでしょうか。
あきらかに日本は、「雇う側」(企業)と「雇われる側」(職につきたい人間)との縦社会。歴史を振り返ってみても、「お殿様」がいた国・日本は、「うえ」をあがめる文化が、いまだに根強く残っていると思います。
出世をするには「うえに歯向かう」などもってのほかで、うえには媚び、へつらうほうが出世の早道。そして「スマートな生きかた」だと思っている人も少なくないのではないでしょうか。
たしかに、不愉快な思いをした面接の最中に、正直な自分の気持ちを打ち明けたり、面接官に逆上して論破したりすると、間違いなく「合格」は手に入れることはできず、職につけないかもしれない。かといって、不快な面接を我慢してまで、その会社に入りたいという強烈な情熱がそこにありますか?
ある意味、自分が理想としていた就職先の面接が低俗であったのであれば、私はむしろ「面接の時点で気づかせていただき、ありがとうございました」と思うのですが…。
何にしても、日本で「○○ハラスメント!」と声をあげているなかの一部の人を、私は「負け犬の遠吠え」にしか思えないのです。
たしかに、ひとりでは声をあげられない状況では、こうしたひと声はとても心強いものでしょう。誰かが勇気をもって声をあげることで、同じ目に遭った人、共感する人が増え、その数が増えることによってますます訴えかけやすくなるのも事実です。
しかし仲間が増えると、どうしてもどんどん「声をあげたほう」が絶対的に正義であるかのように、雪だるま式に膨れあがってしまうことがあります。同じ思考をもった人が多くいるなかで「絶対に自分が正しい」と思ってしまうのは仕方のないこと。
そんななかで、冷静に物事を判断できますか?おそらくできないケースがほとんどなのではないでしょうか。ではもしあなたが深い共感から被害者のフォロワーのひとりとなり、急先鋒に立って戦っていたとして、その訴えそのものが、実は間違っていたのだとしたらどうしますか?
そのような可能性があるのに、フォロワーでサークルを作ったり、束になって「打倒、ハラスメント!」と、戦う必要はありますか?
もちろん、被害者をサポートする環境は絶対的に必要です。しかしセクハラはあくまで傷つけられた被害者個人の問題であり、フォロワーが被害者と同列で戦うものではないのでしょうか。