私たちが結婚した理由
残業を終えてマンションの廊下を歩いていると、カレーのにおいがした。きょうはどこかの家がカレーだったようだ。私は、カレーすら満足に作れない。こんな時間に帰ってきて、お義母さんが望む「妻としての務め」は、何ひとつ果たせない。
「ただいま」
カレーのにおいの終点は我が家だった。リビングの電気はもう消えている。また、啓太にご飯を作らせてしまった。以前は感じなかったはずの罪悪感が、いまは胸いっぱいに広がっていた。「ありがとう」と素直にいえていたはずなのに、「作らせてしまってごめんなさい」になる。
薄く回る換気扇の音だけが聞こえる部屋の静けさが、さらに私を責めているように感じる。涙を堪えて立ち尽くすしていると「グゥ」と結構な音でお腹の音が響いた。こんなに泣きたくなっても、お腹は減るのだ。お皿にご飯を盛っていると、啓太が部屋から出てきた。
「おかえり、きょうもお疲れさま」
「ただいま。ごめんね、おこしちゃった?」
大丈夫だよ、仕事してたからと首を振りながら、啓太はソファーに腰かける。
「やっぱ、母さんになんかいわれたよね?」
いつから気づいたんだろう。空回る私に、言えない私に、啓太も傷付いたかもしれない。自分の親が妻にそんなことをいったと知ったら、より傷付く可能性もある。そして万が一、「そんなこと母さんがいうはずない」と否定したり、「まぁ、それも一理あるよね」なんて肯定されたら?私は、きっと立ち直れない。
ふと顔を上げると、心配そうな瞳。そんなこと、啓太はしないはずだ。私の大切な人で、私が選んだ人なのだから。息を飲み、手にしたままだったお皿をキッチンに置く。ソファーに近づくと、啓太が少しだけ右端に寄った。私のためだけに空けられたそこに座って、ぽつぽつと打ち明ける。
「なんでもっと早くいってくれなかったの」
「お義母さんのいってることも、一理あるなって。私…啓太に申し訳ないことしてたなって思って…」
「はあ…あのさぁ」
ため息をついて首を振る啓太。
「自分のやれることをやる、相手を支えあいながら暮らしていく、それが夫婦なんじゃないの?俺たちはお互いの希望とか、暮らしかたがぴったり当てはまったから、結婚したんだと思ってたんだけど…」
奈津子は違うの?と問いかけてくる啓太に、思わずハッとする。そうだった、私も啓太もこの暮らしかたがいいと思って、結婚を決めたんだった。
「俺、全然かわいそうじゃないし。奈津子がおいしい~ってご飯食べてくれるの、ほんっとにうれしいのにさ。いまどき『家事は女がするもんだ』なんて、インスタでいってみ?フォロワーが聞いたら怒るよ。だから、俺たちはいつも通りでいいんだって」
そういいながら、啓太は私を力強く抱きしめた。