こんにちは、椎名です。世界中にファンを持つスタジオジブリ(以下、ジブリ)。この記事を読んでいるかたのなかにも「ジブリの作品が好きで、繰り返し観ていたりテレビで放送するたびについ観てしまう」なんてかたがいらっしゃるのではないでしょうか。
きょうはジブリ長編映画作品のなかから、高畑勲氏の最後の監督作品『かぐや姫の物語』を、LGBTQ当事者であり、シス女性(生まれたときに割り当てられた性別と性自認が一致している女性)と同じ環境下で、シス女性として扱われながら過ごしてきた自分の視点で紐解いてみます。
- この記事はネタバレを含みます。
姫の犯した罪、罰とは
『かぐや姫の物語』は『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』『平成狸合戦ぽんぽこ』などを手掛けた高畑勲最後の監督作品。2013年に公開されました。
キャッチコピーは「姫の犯した罪と罰」。近年のアニメーション作品ではあまり見られないアニメーターの手書きのタッチを人物と背景の双方に活かした、まるで一枚の絵がそのまま動いているような映像が美しい作品です。
日本に古くから伝わる『竹取物語』を原作としていて、題材自体は幼いときに絵本や紙芝居で触れた経験があるかたも多いのではないかと思います。
『かぐや姫の物語』を鑑賞する前は、「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーはそれまで知っていたかぐや姫のストーリーのイメージと少しギャップがあるように感じました。
僕が認識していたおとぎ話の『かぐや姫』は、竹から生まれ、育つにつれて磨かれていった美貌によって好きではない男性たちから言い寄られ、とんちのような難題でそれを交わす賢さを持つお姫様。そして、もともと月の生まれだったかぐや姫は、物語の最後に月へ帰ってしまうのです。
男性たちをひどい目に合わせたことを罪、月に帰ることをその罪による罰とするにはなんだか大げさでストレートすぎるキャッチコピーに思いました。
しかし鑑賞後は感じていたギャップはなくなり、今作のメッセージをぎゅっと凝縮した素敵なキャッチコピーだなと頷きました。
「姫の犯した罪と罰」の罪とは、おそらく姫が月にいたころに地上(地球)での暮らしを願ったこと。罰は、地上に送られたこと。地上に送られることで、父親をはじめとした周囲の“欲”に振り回され、自分の意志とは異なる生き方をしなければならなかったこと。
もっと言えば、欲深な地上の人間の汚さや愚かさに心苦しくなりつつも命が巡る美しさを知り、それを知ったうえで最後はその記憶さえも消されてしまうことだと受け取りました。
人間の“欲”
姫の意に反して、彼女を取り巻く周囲の人間たちはそれぞれの欲と思いを彼女に向け、重ねます。
物語を悲しい結末へと向かわせるそれらは、姫のような絶世の美女ではなくとも現代の、少なくともこれまでの日本に生まれ育った多くの女性たちにも向けられてきたもののように感じました。
作中で彼女に向けられていた欲を、大きく「親の持つ欲」と「所有欲」のふたつに分けて考えてみます。
原作『竹取物語』と同じく、翁(おきな)と媼(おうな)の夫妻は子どもをもつことができませんでした。そんなある日、ふたりのもとへ赤子の姿のかぐや姫がやってきました。このときからすでに、翁と媼それぞれが彼女に対して抱いている思いに小さな違いがあるように感じます。
媼は「私たちに育ててもらいたがっている」と彼女を受け取るのに対し、翁は彼女を「娘」ではなく「姫」と呼び、神様から授かったのだと喜びます。
後半かぐや姫が月に帰らなければならないと告白する場面でも彼は、姫が「翁が選んできた道ではなく鳥や獣のように生きたかった」と口にしても、「いままで姫に仕えて来たのにひどい」と、月に帰る原因が自らが姫に強いてきたことであると全く気づいていません。
いや、気づきたくなかったのかもしれません。彼女を「高貴な姫君」として、貴族などの高貴な身分の男性のもとへ嫁がせることが、翁の思う“かぐや姫”の一番の幸せ。
そう信じること自体は、あくまで姫の幸せを願った親心であり、すべてが間違っているとは思いません。もちろん彼もそれが正しいと思っているからこそ、お金を得れば都へ上がり、仕来りに従って彼の思う幸せの道を歩ませようとしたのだと思います。姫も媼も、翁の行動が100%彼女を思ってのものだとわかるから何も言えなくなってしまいました。
翁が、自分の親心が彼女との別れを招いたとわかるのは、かぐや姫が羽織ると地球での記憶を失ってしまう羽衣を月からの使者によって双肩に掛けられてしまったあとでした。
美しく育ったかぐや姫に言い寄る5人の公達や帝(みかど)は、全員が彼女の美貌の噂を聞きつけて結婚を迫りました。
彼らの誰もが、高貴な姫君であればあるほど、早いうちに嫁ぐことが彼女の幸せであると考えていて、その相手が身分ある自分のような男であればなおのこと。そしてそれが当たり前だと思っています。
かぐや姫は全編通して自分の美しさを全く気にかけていないので、美貌だけを褒め称える彼らには当然心を開きません。
僕には、外見だけで選ぶ彼らが彼女に向けるものは恋心などではなく、手に入らないと知れば知るほど欲しくなる、いわばコレクションを求める所有欲のように見えました。彼らはかぐや姫をひと目見てもいないので、一目惚れでもありません。
姫が慕い続けた捨丸(すてまる)でさえ、「妻子を捨てて彼女を連れ去って逃げる」とまで言い放ってしまう理由のひとつは、大人になって再会した彼女の美しさにほかならないように見えました。
彼が妻子ある身であることは姫は知らないため、観客には彼の放つ言葉がより無責任なものに聞こえます。
本当に彼女と逃げてしまったら、彼の妻や子どもはどうなってしまうのか。妻と子の存在を知った姫がどう思うのか。信じて慕った人でさえ、野に咲く蓮華をよこし、偽りの言葉を並べた男性と同じく彼女をあざむこうとしていると考えると、あまりにも救いがありません。
絶世の美女であるかぐや姫でなくても、見た目で価値を値踏みされたり「○○ちゃんは○○ちゃんよりもかわいい」などとランクづけされた経験は、よくも悪くも多くの女性がされたことがあるのではないかと思います。
かぐや姫も、現実を生きる女性たちも、その人がもつ本当の価値は見た目だけでは測れないというのに。