“繋がらない権利”、どこに焦点をあてる?
夏になって1週間の休みを取り、SlackもGmailも通知を切ったものの、習慣化したスマホチェックはやめられず、旅行先でも暇があれば来週の記事のネタを探したり、やり忘れたタスクはないかとSlackやGmailをのぞいたりしていた。
せっかく休める時間なのに、休めない。そんな夏休みを過ごした後、生理が3カ月きていないことに気づいた。婦人科へ行くと、疲労とストレスでホルモンが分泌されなくなっていたのだ。
私の場合は掛け持つ仕事とやらなければならないことが多かったこともあるが、いま考えてみると「仕事をやらなくていい時間」まで仕事をしてしまっていたのではないかと思う。
頭ではわかっていても、仕事の時間とプライベートの時間を切り離せなくなる。いますぐ対応しなくてはならないわけではないのに、そこにパソコンとスマホがあれば見てしまう。自分の力だけでは“繋がらない”ことができなくなってしまうのだ。
“繋がらない権利”についての議論において、上司からのリモートハラスメントに繋がるというような「業務に関わるものを送る側」への改善を求める声が多く集まる。
だが、ここで改善されるべき状況は、この「プライベートの時間以外に送らない」ことはもちろん、「プライベートの時間にみないこと」。“繋がらない権利”は、「業務に関わるものをみる側」にも焦点を当てるべきではないだろうか。
日本における“繋がらない権利”。それは働かないことへの肯定
冒頭で述べた私自身の習慣を含め、Z世代の観点からすると、スマホやパソコンのなかで“繋がること”は日常的に行うことであり、これを変えることは難しい。
いまから考えると、私が体調を崩すほどスマホやパソコンをみてライティング業務を行なっていたとき、上司や編集者はそこまでして早急に対応してほしい業務内容ばかり送っていたわけではなかった。ではなぜ私は「仕事以外の時間」に“繋がってしまっていた”のだろうか。
それは、業務を行なっていない時間の不安があったからだ。休む時間がないことでのストレスもあるが、プライベートの時間を作ってしまうことや返信を怠ることでもストレスをかけてしまうことが原因として考えられたのだった。
“繋がらない権利”において、フランスやイタリアなどの他国とは異なる日本独自の論点として挙げられるのは、「働かないことへの肯定」だと考える。
たとえプライベートな時間に上司からの連絡がなくても、日本独特の“働く精神”によって出社がない代わりに仕事をし続けてしまうのだ。
現在働くリラクゼーションサロンで頻繁に聞くようになったのが、「リモートワークになって仕事とプライベートを分けられなくなった」「いつでも仕事が気になってメールやSlackで進捗状況をみてしまう」という言葉だ。
日本人の多くは出社という拘束時間がなくなったことでいつでも仕事ができる状況になり、より仕事をしていないことの不安感を感じやすくなってしまったことが考えられ、“日本人の働く精神”がなくならないままコロナ禍によって広まったリモートワークは、“仕事と繋がらない不安”を助長させたのではないだろうか。
たしかに“繋がらない権利”によって、上司や仕事を任せる側を抑制することはできる。だが、日本における“繋がらない権利”を持つことは、「働かないことを肯定する」ことの第一段階なのだと考える。
残業時間に厳しく、労働基準法が改正されても仕事量が変わらないという問題にも類似して、日本における「仕事をしない」ことへの嫌悪や罪悪感を拭わない限り、“繋がらない権利”が法的に認められたとしても、日本人の労働におけるストレスはなくならないのだ。
“繋がらない権利”。繋がらない選択を本当にできるようにするには、日本人の根本に存在する「労働精神」を変えていく必要があるのではないだろうか。
仕事をする時間が一日で最も多くを占める日本には、いまだに美化された労働精神に重きを置いている人も少なくないはずだ。
「レスポンスが早い人は仕事ができる」「上司に指摘される前に自ら仕事を見つけられる」「仕事の目標のためには残業も厭わない」このような労働基準法には書いていない労働精神を、暗黙の了解で行う必要はない。
仕事で認められることが個人の存在価値ではないし、与えられた仕事を確実にこなし、労働時間外は働かないという当たり前のことを当たり前にできる空気が日本には必要なのだ。
その空気が拭われたとき、本当の“繋がらない権利”が可能になるのではないだろうか。
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