妻の「しよう」というアピールに戸惑い<夫視点>
子どもがほしいのは嘘じゃない。結婚したときからずっと、にぎやかな家庭に憧れていた。
だけどレスが1年続いたあたりで、妻に興奮しなくなっていく自分に気づいた。これじゃあまずいと思ったが、そのうち誘い方を忘れてしまった。
気づけば3年。妻に「そろそろ妊娠について考えないと」と話をされるたびに、子どもがほしいと願う気持ちと、身体を重ねることに興味のない自分の間で戸惑いを感じていた。
結局受け止めきれずに話をそらしてきたが、その反応が彼女を傷つけているのも知っていた。見てみぬふりをしてきた。
ある日仕事から帰ると、妻が好物のローストビーフを仕込んでいた。平日の仕事から帰ってきて作ったとは思えないほど豪華な内容だった。
「どうしたの、きょうはごちそうだね」
「うん…ちょっと気が向いて」
そう言って振り返る妻は、いつもより綺麗に見えた。美容室にでも行ってきたのだろうか。ただの気のせいだろうか。
そんなことを考えながら食事に箸をつけると、ダイニングテーブルの余った椅子のうえに真新しい紙袋が置いてあるのに気づいた。
「それ、何買ったの?」
「…あっ、これは…」
妻は中身をちらりと見て、照れくさそうに答えた。
「新しい下着、買っちゃったの。可愛いんだよ」
「ふーん」
ザワリと、心を筆でひと撫でされたような気がした。下着を買うのくらいいいだろう。俺が新しいパンツを買うのと一緒なことじゃないか。
しかしそのざわめきはどんどん広がっていく。妻の本心に気づいてしまいそうだから。このごちそうも、美容院帰りのようなキレイな姿も、すべて俺との夜のためなのではないだろうか。それとも…。
紙袋に入っていた下着をこっそり見ると、真っ赤なレース柄の派手なデザインだった。妻の好むチョイスではない。
「ねぇ、となり座っていい?」
妻がお風呂から上がってきた。スマホで「レス 3年 浮気」と検索していた俺は少し飛び上がる。
「ああ、うん」
スマホを閉じて妻のほうを見ると、見たことのないパジャマを着ていた。なんだかテロテロと光っている、サテン素材。ラベンダー色で、あまり妻には似合っていない。普段のスウェット姿のほうがいいやと思ってしまった。
そしてちらりと見えた妻の下着は、さっき紙袋の中に入っていた赤いレース。
よかった、浮気じゃない。
隠れてコソコソ下着をつけるわけではなく、買ったことも俺に隠さず、さらにお風呂上りにつけている。これが意味するのは、知らない他人のためじゃなくて俺のためということか。
「たまには晩酌でもどう?おいしいワイン、買ってきたの」
妻の一言で、予想が一気に形になった。妻の「しよう」というアピールがひしひしと伝わってくる。
俺は急に妻が距離を縮めてきた状況に戸惑い、それと同時に興奮しない申し訳なさと、子どもの話をしなければいけない義務感に襲われて、思わず自室にこもってしまった。
妻の頑張りを、受け止めようと思えない。いまさらどうやって妻を抱きしめればいいのかもわからないのだ。
妻のことは愛している。寂しい顔もつらい顔も本当はしてほしくない。だけど身体が愛することを拒絶する。どうすればいいのかわからなくなっていた。
「じゃあ、私なんてどうです?」
向かいの席でビールを飲み干した後輩の女性社員が、酔いの回った表情で俺に問いかけてくる。仕事の悩みを聞いてほしい、と言われた俺は駅前の居酒屋で後輩と焼き鳥を食べていた。
ひととおり悩みを聞いた後、お礼にどんな悩みでも聞くというから「妻と最近ぎくしゃくしていて」と打ち明けてみた。理由は特にない、だけど心と身体がすれ違うのだと。
「どういうこと?」
「奥さんに飽きてきたってことじゃないですか?よくしようと思っていたら、もっと早くに先輩は行動できていると思います」
「仲直りの行動、ってこと?」
「そうです」
たしかに、俺は逃げるばかりで妻と真正面から向き合おうとしなかった。状況を変えるために自分からアクションなんてしなかった。きのう妻がしたように、思い切った行動なんてしたことがない。
「違う女を抱けば妻への興味が再燃するかもしれない、って思いません?私でよければ」
「悪いけど」
後輩の言葉を遮るように、俺は話す。
「俺、不倫はしたくないんだ」
「…そうですか」
不倫をすれば、妻から本格的に逃げていることになる。もう二度と向き合えなくなる。後戻りできない場所まで行ってしまう。それはイヤだった。どれだけ自分の気持ちが前を向けなくても、妻を裏切るような行為だけはしたくなかった。
「先輩、ごちそうさまでした」
ニコニコと笑いながら頭を下げる後輩。
「家どこ?送ってくよ」
「いえ、駅までで大丈夫です!電車乗ってすぐなんで」
そういえば、と俺はスマホを取り出す。妻はきょう、友人と飲んでくると言っていた。もう帰っているころだろうか。
「先輩、何見てるんですか~?」
突然後輩が腕を絡ませてきて驚く。
「なんだよ急に、びっくりしたなぁ」
「女子と歩いてるときにスマホを見るなんて失礼ですよ!だから奥さんに嫌われちゃうんじゃないです?」
「ははっ、別に嫌われてるわけじゃないと思うよ、きのうだって…」
言おうとしてやめる。下着の話をしなければいけなくなる。
「えー?何?なんですか?
「いや、なんでもない」
なになに?としつこく聞いてくる後輩がなんだかおもしろくて、腕を組まれたまま俺は駅まで彼女を送り届けた。
「ただいま」
玄関の扉を開けると、妻の靴が置いてあった。どうやら先に帰ってきたらしい。帰宅前に一言メッセージをくれたら一緒に帰れたかもしれないのに。アルコールの回った頭で「そんな流れを作れたら、そのままレスが解消できたかもしれない」とぼんやり考えた。
「おかえり」
リビングのソファーに座って、シャワーから上がった姿のままの妻が声をかけてくる。濡れた髪がやけに色っぽくて、少しドキリとした。水滴があごから伝って床にぽたぽたと落ちる。ちゃんと髪を拭かないと風邪ひくよと言おうとしたところで、その水滴が涙だと気づいた。
「どうした?なんで泣いてるの?」
慌てて声をかけると、妻はこちらをギロリとにらみつけた。
「…きょう、駅前で腕を組んで歩いていた女性は誰?」
まさか、あの光景を妻が見ていたなんて。写真まで撮られていたなんて。勘違いを訂正するものの、妻は聞く耳を持ってくれなかった。
このまま不倫だと本当に勘違いされたら、最悪の事態に向かってしまう。後輩に弁明してもらうべきか、とにかく誤解だと謝りに行くか?部屋に行った妻を、抱きしめに行けばいいのだろうか。
そのどれもが嘘っぽく感じて、自分の気持ちを伝えられない現実に苛立った。本心をどう伝えればいいのだろうか。別に抱きたくないわけじゃない、抱き方を忘れてしまったのだと。それでも君を愛している。傷つく顔は見たくないんだと。
どうすれば、伝えられるのだろうか。