張り紙
数日後の木曜日の夜、リビング全体を覆えるほどの量のクッションマットが自宅に届いた。
真紀は仕事終わりの剛志とともに、音に気をつけながらクッションマットを二枚重ねにして念入りに敷いた。これでしたの階の人を困らせることもなくなるだろう。
そう思って、2日後。土曜日の朝に事件は起きた。
ドスン
床が鈍い音を立てて響く。朝食の準備をしていた真紀と玄関掃除をしていた剛志は、飛ぶような勢いでリビングへと駆けつけた。
「和也!?」
リビングでライダーアニメを見ていた和也は、どうやらつまづいて転んだらしかった。自分でゆっくり立ち上がり、床についてしまったのであろうひざをじっと見つめている。
二重に敷いたクッションマットのおかげで、怪我はなく、痛みもなかったらしい。
「だいじょーぶ」と言ってけなげに立ち上がる和也を見て、真紀と剛は同時に胸をなでおろした。
しかしその瞬間、地面から突き上げるような振動が襲ってくる。
ドンッという音と共に、床が揺れた。音は一定間隔で3度ほど続き。やむ。
その音が、したの階の住人が部屋の天井を何らかの家具で叩き、真紀たちにクレームを送ってきているのだと気づくのに、そう長い時間はかからなかった。
その日から、和也が少し足音を立ててしまっただけで、和也に限らず真紀や剛志の足音が聞こえただけで、したの階の住人は天井を叩くようになった。
剛志が仕事から帰ってくると、玄関の前で1人の老紳士が心配そうに佇んでいた。
「花園さん、こんばんは」
剛志が頭を下げると、隣の部屋の花園明が慌てて声をかけてくる。右手には、文字の印刷された白いコピー用紙を握っていた。
「渡瀬さん、これ」
明は剛志の顔を見て、心配そうにコピー用紙を見せてくる。
紙には「ガキがうるさい黙らせろ」と、大きなゴシック体が印刷されていた。
「…いまちょうど仕事帰りだったんだけど、渡瀬さんちの玄関に貼ってあって…驚いちゃって」
「これは…」
「したの階の、小島さんだと思うんだ」
そのとき初めて剛志は、したの階の住人の名前が小島だと知る。
「最近、小島さん床つついてくるでしょう」
「花園さんも、聞こえてましたか」
「うん、コツコツ、ってなんとなくなってたからね…昔から結構迷惑行為の多い人ではあったんだけど、最近大人しかったから油断してた。理事会に言って注意してもらおう」
明は自分に言い聞かせるように「うん、それがいい」と呟いて剛志の顔を見る。
「和也くん、怖がってない?」
「いまのところは、大丈夫です。静かにしている分には何も言われないので…歩くときも最近は忍び足ですね」
「そっか。普通に歩かせてあげたいよね、そんな気を遣わせるなんてさ、大人だってある程度足音はなるのにね」
明のつらそうな顔を見て、剛志は少し心強いな、と感じてしまう。
隣に住む花園夫婦は、和也を自身の孫のようにかわいがってくれていた。そんな素敵な隣人がいるなら、安心して暮らせるなと、このとき改めて思ったのだ。
しかし明や理事会からの注意もむなしく、後日さらなる事件が起きた。