恐怖の夕方
水曜日、夕方4時。ドラッグストアでのパートを終え、和也を保育園に迎えに行き、真紀は和也と歌いながら自宅に向かっていた。
カレーライスの歌を口ずさむ和也を見て、エコバッグのなかのジャガイモも笑っている。そんな光景に幸せを感じていた真紀の前に、見慣れた顔が突然現れたのだった。
「こんにちは」
真紀と和也の行く手を阻むように、目の前に立ちはだかったのは、下の階の住人である小島だった。
マンションの入り口から30mほど手前。歩道と車道の境目に、ぼーっと小島が立っている。
「あ、こんにちは」
真紀は頭を下げ、そそくさとその場を立ち去ろうとする。しかし小島は真紀の進行を許さなかった。
「あのぉ、ちょっといいですか」
小島は急に真紀のエコバッグをつかみ、真紀の足取りを止める。怯えた様子の母親を見て、和也はギュッと真紀の足にしがみついた。真紀も咄嗟に、左手で和也の手を強く握る。
「なんでしょう」
「毎日毎日毎日毎日ね、おたくのガキの足音がうるさいんですよ」
「申し訳ありません、気を遣っているのですが」
「気を遣ってあれ?ちょっとねぇ、常識外れだと思うんですよ。だってね。ドタドタドタドタ毎日聞かされてね、こっちはノイローゼになるに決まってるじゃないですか。それを気を遣ってるの一言で片付けられたらね、たまったもんじゃないですよね」
「すみません」
「あのね、毎晩うるさくてね、寝れないの、不眠症。わかる?これね、慰謝料請求させてもらおうかなって思ってね、いいですよね、僕、精神的においこまれてますからね、ええ」
「あの、息子は夜8時には寝ているのですが、それでもうるさいですか?」
「そういうね、嘘とか言い訳とかいらないんですよ。ええ。被害者はこっちなんだから、ねぇ。悪い人の言うことよりもね、こちらの言うことの方が信ぴょう性あるんですよ。だからね、余計なこと言わないでもらえますか。それともなんですか、こっちが悪いって言いたいんですか?クソガキのために我慢しろと?」
「そういうことでは」
「そういうことですよね、ねぇ、ね?あなたがいま言っているのって、そういうことですよね」
小島は真紀のエゴバッグをグッと引っ張る。真紀は姿勢が崩れないようにと足に力を入れた。
「何してるんですか」
声をかけてくれたのは、同じマンションの住人だった。
40代ほどの主婦と中学生ぐらいの少年が、真紀と小島の間に割って入る。
「大丈夫ですか」
少年は真紀に声をかけ、次に和也に声をかけた。
「小島さん、どうしましたか」
主婦は小島を知っているようだった。小島は主婦の顔を見てもなお「だってさ、あの女とガキがおかしいんだよ」と声を張り上げ続ける。
「警察、呼びましょうか」
さらに後ろから声をかけられ、振り向くとサラリーマン姿の男性が立っていた。スマートフォンを手に持っている。
小島はまだ主婦に怒鳴り散らしていた。
「はい、呼びます」
真紀がうなずくと、サラリーマンはすぐにうなずいて110番に電話をかける。気づけば花園明の妻、洋子も現れ、真紀は言われるがまま管理会社に電話をかける。
その間、震える和也を少年がずっと見守ってくれていた。
10分後現れたパトカーを見て、小島は怒鳴りながら吐き捨てた。「どうなっても知らねえからな」と。
庇ってくれたほかの住人達は小島をきつくにらみつけていたが、小島はずっと真紀と和也をにらみつけていた。
「また何かあったらすぐに呼ぶんだよ」
間に入ってくれた主婦が、真紀の肩を優しく抱く。和也はすっかり少年に懐いたようで、「お兄ちゃん、またお話ししてね」と言っている。
管理会社に「何かあったらまた電話してください」と名刺をもらってから、真紀はようやく、涙がボロボロとあふれてきた。
もし、誰も近くにいなかったら、和也に何か危害を加えられていた可能性だってあった。
そう考えた瞬間、真紀は耐え切れないほどの恐怖に襲われた。
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