危険な避難
剛志に駅まで送ってもらった真紀と和也は、キャリーケースを引いて券売機までやってきた。
早朝にインターネットで購入した指定席券を発券したタイミングで、パート先から電話がかかってくる。
2週間ほど休ませてほしいと連絡をしたはずだったが…と不思議に思い真紀が電話に出ると、少し焦った様子の、店長の声がした。
『あ、もしもし?真紀ちゃん?』
50代ほどの女性店長は、下の階の住人の執拗な嫌がらせの話を聞いて心底心配してくれていた。実家に帰れないならうちに来てくれてもいいから、とまで言ってくれたほどだ。
「店長、おはようございます。どうかしましたか?」
『いやあのね、さっき変なお客さんが来たの。渡瀬真紀さんはいますか?って、その人コジマですって名乗ってたんだけどね、もしかして…したの階の人じゃない?』
「えっ…」
『いません、って聞いたら次はいつ出勤ですかってうるさくて。みんなで知らんぷりしてね、そもそもそんな人うちにはいませんまで言ったんだけど、そしたらボソッと、逃げたかって言ってたような気がしたのよ』
「逃げた?」
『うん…真紀ちゃん、いま駅?』
「そうです。和也と一緒に」
『早く電車乗ったほうがいいよ。なんか嫌な予感するもん』
「わかりました、ありがとうございます」
店長からの電話を切り、真紀は和也の手を再度握りしめた。シャツの胸ポケットに手を当ててから、大きなキャリーケースをひく。店長の不安が当たりませんようにと願いながら改札まで早歩きする。
後ろを振り返っても、小島らしき人はいない。
ここからパート先まで、自転車なら20分はかかる。もし小島が『実家に帰った』なんて目星をつけたとしても彼は真紀の実家を知らないし、考えに考えて駅まできたとしても、どの電車に乗るかなんて見当もつかないはずだ。
深呼吸して改札をくぐる。大丈夫、実家に帰るだけ、大丈夫。
そう言い聞かせて改札を抜けると、和也が不意に真紀の手を強く引っ張った。
「ママ、トイレ行きたい」
「うん、いこっか」
改札をくぐったからもう大丈夫。
真紀と和也がトイレから出ると、電車の出発時刻まであとまだ10分ほど余裕があった。コンビニでおやつでも買おうかと、和也と共に駅構内のコンビニに歩く。
そのとき、視界の端に、こちらをじっと見つめる人がいた。
真紀が視線の方へ恐る恐る体を向けると、そこにいたのはたしかに小島だった。息が止まる。
「ママ!」
和也の声でハッと現実に引き戻され振り向くと、和也もあの男を見ていたらしい。青ざめた顔で必死に真紀の服をつかみ、首を横に振る。
真紀は和也を抱きかかえ、トランクを持ち上げてエスカレーターまで一気に走る。
スーツ姿のサラリーマンたちで混雑するエスカレーターと、空いている階段を見つめ、真紀はそのまま階段を駆け上った。
トランクの重さも和也の体重も、いまの真紀はまったく感じなかった。おでこから汗が噴き出すのも、真紀はまったく気にならなかった。
階段を上るほかの通勤客や旅行客が心配そうに真紀を見つめているのも、いまの真紀は知らなかった。
幸い、電車はすでにホームに到着していた。8番ホームまであるのだ。乗ってしまえば、小島もそう簡単に見つけられないだろう。
購入した指定席に座ると、ドッと疲れが押し寄せてきた。汗が吹き出し、身体がゼェゼェと呼吸を求める。
「ママ、大丈夫?お茶飲む?」
和也が自分の水筒を差し出してくるので、思わず真紀は笑ってしまった。
「和也は優しいね、ありがとう。ママも持ってるから大丈夫だよ」
笑いながら水筒のお茶を見せる。ホッとしたような和也の顔を見て、真紀は安心した。
「そうだ、ちょっとカーテン閉めていい?」
「えー、ぼくお外の景色みたいよ」
「走り出したら開けていいから、ね」
「うん」
念には念をと、真紀はカーテンを閉める。
その数分後、電車が動き出してすぐに和也がカーテンを開けると、駅のホームでじっと真紀たちの乗った電車を見つめる男がいた。
ゆっくり動き出す車内から、真紀はたしかにその男を見つけてしまう。そして男も、小島もまた、駅のホームから真紀たちを見つめていた。
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