関係が進むとき
ふたりの関係に大きな変化があったのは、部署をあげて取り掛かっていたプロジェクトが成功を収めたとき。
お疲れさまの飲み会が開かれ、会計を担当した真弓さんはみんなから集めたお金を個室の隅で数えていました。
「大丈夫?」と声をかけながら隣に座ったのが上司で、真弓さんは「酔っているその人を見たのは初めてで、ドキドキしましたね」とそのときの自分を思い出しました。
みんなと打ち解けた様子でビールのジョッキを空けていたという上司は、紅潮した頬のまま真弓さんの肩に触れるほど体を寄せます。
うれしさと困惑で目も合わせられないまま、「もうすぐ時間だからお会計をしてきます」と話す真弓さんに、上司は「この後はどうするの?」と尋ねました。
二次会には行かず帰宅するつもりだと真弓さんが答えると、上司は肩に寄せた顔をさらに下げ、周りに聞こえないような小さな声で「俺も行ってもいい?」と続けたそうです。
何を言われたのかわからずに真弓さんが聞き返すと、「部屋に行きたいんだけど」と上司は繰り返し、ふうとため息をつきます。
「その息がすごいお酒くさくて、ああ酔ってるなと思ったのですが、すぐに『はい』とは言えなかったですね」
そのとき真弓さんの胸に浮かんだのは、「この状態で私の部屋に来るってことは、目的はひとつだろうな」という静かな想像でした。
会社では絶対に見せない無防備さで体を寄せているのも、息がかかる距離で話してくるのも、自分とのスキンシップを求めていることは明白。
「私が断るわけがないっていう自信ですよね、この先を私も当然受け入れるだろうっていうのが伝わって…。こう、暗黙の了解みたいなものを押し付けられているのがわかりました。そんな上司の甘えが何より嫌でしたね」
そう話す真弓さんが、これは酔ったうえでの誘いだと冷静に考えられたのは、好きだからこその違和感が大きかったようです。
冷めていく気持ち
「私の気持ちが知られていたとしても、それをこんな形で利用されるのはまっぴらだと思いましたね。だって、好きとも言わないんですよ。酔った状態でいきなり私の部屋に行くなんてこと、本当に好きならやれないじゃないですか」
悔しそうに声を歪ませながら、真弓さんはそのときを思い出していました。
気持ちを知っていてなお、カラダが目的と思わせるような振る舞いを見せてくるのは、存在を軽く扱われているのと同じ。
この上司のことを「本当に好きで、尊敬していた」と繰り返す真弓さんは、だからこそそんな姿を受け入れられませんでした。
「『ごめんなさい、ちょっと寄るところがあって』と言ったら、あの人はぱっと離れました。予想外の返事で冷めたのでしょうね、まともな調子で『会計、足りなかったら俺に言ってね』って取り繕うのがおかしかったです」
その自分の声が冷たい響きを持っていたことも、真弓さんは覚えています。
好きな人から求められることは、相手が独身者で酔っていなければ、「好きだ」と最初に伝えてくれる誠実さがあるのなら、これ以上の歓喜はありません。
そうではなく、肝心な気持ちの部分をぼかしながらいきなり深い関係を押し付けてくるのは、不倫を望む既婚者にありがちな手口です。
それが相手をどれほど傷つけるか、真摯なほどに拒絶するのもまた当然であって、誠実さを欠いた振る舞いは自分が恥をかく結果になります。
この姿を見て「気持ちが冷めた」と話す真弓さんは、次の週からこの上司に視線を送るのをやめ、会話も仕事上のものだけにして、どんどん距離を取っていったそうです。
それを「何事もなかったかのように涼しい顔で受け止めていた」男性は、自分の言動が真弓さんにどんな影響を与えたか、嫌でも思い知ったのではないでしょうか。
恋愛をまともに考える人ほど、歪んだ関係をよしとはできません。
それは自分を大切にするからで、気持ちを利用されることのおぞましさを理解しているといえます。
向けられる愛情を自分の都合よく扱おうとする人は、いずれ愛情そのものを失うことを、忘れてはいけません。
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