ふと目が覚めた朝。カーテンの隙間から水色の明かりが差し込んでいた。手に重みを感じて目をやると、スマホを握りしめたまま寝てしまっていたようだった。
いつのころからか、スマホをみたまま寝落ちする生活に慣れ、YouTubeをみたりSNSを漁ったりしているといつの間にか寝てしまっていたなんてことが毎日のようにある。
私たちZ世代は、“繋がる”ということが当たり前で、いつでも誰かと、何かと繋がっていることが当たり前の日常だ。だからこそきっと、鳴り止まない仕事のメールもSlackも、当たり前のように返信してしまうのかもしれない。
コロナ禍でテレワークが広まったことにより、注目された言葉がある。それは「繋がらない権利」という言葉だ。
きっと私たちZ世代は、容易にこの言葉の意味を想像できるだろう。なぜなら常に“繋がること”を意識して生活しているからである。
そしてあるとき、“繋がらない”ことを、意識してやる瞬間がある。それがうまくいくこともあれば、うまくできずに逆にストレスになることもあるのが、私たちZ世代の小さな日常なのではないかと思う。
意識しなければ“繋がらない”ことができなくなってしまういまの時代に生きる、私たちのプライベートはどこにいってしまうのだろうか。
今回はこの“繋がらない権利”を通して現代日本人の働き方について、Z世代である筆者が考えていきたい。
“繋がらない権利”を持たなかった私は
“繋がらない権利”とはどのようなものだろうか。
日経スタイルの記事によると、労働者が就業時間外に仕事のメールや電話などへの対応を拒否できる権利のことで、コロナ禍より前の2019年には、フランスですでに「繋がらない権利」を行使する条件を労使交渉で定められていたそうだ。
これはフランスに留まることなく、イタリア・カナダ・メキシコ・英国・ドイツなどでも、これに類似する法整備がされたのだという。
労働環境にはその国々の国民性や特徴がでるものだが、例にならって日本での“繋がらない権利”についての法的効力も、他国に比べて弱いのが現状だ。
コロナ禍以前の話ではあるが、私自身もこの“繋がらない権利”に悩まされたことがある。
私は、大学卒業後にライターとして働き出した。芸術の大学を出た私は、いままで培ってきた表現以外の「文章で表現したい」という気持ちのみでライターになろうとしたため、自分の現在地よりも高すぎる会社に、実力と体力とやる気がちぐはぐなまま入社した。
出社スタイルはフレックスで、週に1回のコンテンツ会議への参加、業務内容は週に1本の記事作成、月に1本の特集記事作成とInstagramの運用。
記事を書くこと自体が初めての私はライティングに未熟なところが多く、編集者が私の書いた記事に変更点や修正点を入れて送り返してくれていた。
真っ赤な線だらけになった記事を、修正してはまた修正。そのラリーを繰り返すうちに週末はやってきて、次の週に掲載する記事のネタを探さなければならなかった。
私はそれに加えて飲食店でのアルバイトやダンス講師、そして芸能活動をしていた。プライベートなどほぼなくなっていて、拘束されている時間以外はすべて、ライティングのために時間を使い、昼夜問わず編集者とやりとりしていた。
ライターの仕事だけでは食べていけないものの、タスクの多すぎる生活に私はパンクしてしまった。