「母であること」と「自己実現」と
開け放している2階の網戸から、豊のキャッキャッという声が聞こえてくる。扇風機をつけなくても、今夜は涼しい。
「最近どう? そっちの暮らしは」
親友の早紀は、相変わらず元気そうだ。今日はひさしぶりに、オンライン通話で話す約束をしていた。
「まぁ、変わりない感じ。和史くんは元気?」
「元気、元気。今日は、実家で夕飯食べてるよ」
華麗な恋愛遍歴を重ねてきた早紀は「結婚したい」が口ぐせだったが、4年前、38歳のときに、付き合っていた相手との間に子どもを授かった。しかし結局その彼とはうまくいかず、籍は入れずに別れ、未婚の母になったのだった。
いま、早紀は実家のすぐ近くに住みながら働き、ひとり息子の和史を育てている。
「ご両親が近くにいると、いいよね」
「妊娠したのに結婚しないって言ったときは激怒されたけど、やっぱり、孫の存在は大きいみたい」
もちろん早紀なりに大変なことはたくさんあるのだろうが、たとえシングルでも、関係が良好な実家を頼りながら子育てをするという選択は、けっこういい方法だとも思う。
「なんていうかさ、私たち、ギリギリだったよね。ギリギリで滑り込んでママになった、みたいな」
「ギリギリ、って」
真依子は、早紀の言葉に思わず苦笑してしまう。だが、否定はできない。
「私はひとり親だし、あの子が大人になるまで働かないといけないしで、体力的にはしんどいことも多いんだけどさ。でも子どもがいてくれればなんだかんだ、人生やっていけるかもって、最近つくづく思うんだよね」
「それは、完全に同意」
自分のことを一点の曇りもなく愛してくれるあのちいさな存在が、どれだけ豊かさや平穏を与えてくれているか。それは、仕事でも恋愛でも、決して埋められなかった部分だろうとは思う。
「真依子、ふたり目、楽しみだね。うちはもう、ひとりっ子確定だからさ」
「ありがとう。またしばらくは、バタバタだけどね」
子育ては本当に大変でしんどいことも多いし、この先もいろんな悩みに直面するのだろうが、母親という「自分でなくてはならない役割」を与えてもらったことで、真依子自身、前よりもあかるくなれた部分は確実にある。
「またさ、将来的にお店はやるつもりなの?私、真依子の店、大好きだったからさ」
「そうだね。いつかはやっぱり、またやりたいかな」
移住してから比較的すぐに子どもができたこともあり、真依子はこれまで、専業主婦に近い生活をしてきた。いまは豊が寝ているときや俊二が休みの日などにできる範囲で在宅ワークをやり、自分のお小遣い程度は稼ぐことができている、という感じだ。
それでもさほどお金に困らず生活できているのは、俊二が真面目に働いてくれているということに加え、やっぱり東京に住んでいたときよりも、生活コストが大幅に下がったことが大きい。東京ならばワンルームすら借りられないような金額で、場所は不便だが車庫と庭付きの一軒家を借りることができているし、移住者のための補助金や制度などもある。
ライフスタイルにしても住まいにしても、あのまま東京にいたら、まず実現できなかっただろうとは思う。
結婚したことと子どもを産んだこと。このふたつは、真依子の人生のなかでも「正解」だった。
だが、自分の夢は志半ばで中断してしまっている。ふたたび店をやるためには、また資金をためて準備することになる。もちろん、子どもたちのために収入を得ていく必要もあるし、仕事のことも、少し落ち着いたら考えていかなければいけない。
「なんか、女ってほんと、悩ましいね。子どものを産むのはリミットがあるし、子育てしてれば子どもが一番だし、でもそれだけで終わりじゃなくて、自分自身の人生も考えていかなきゃいけないし。ゴールって、ないよね」
早紀は言う。
その通りかもしれない。いつだって「めでたし、めでたし」ではなくて、ひとつ何かを成し遂げたとしても、そこで終わりじゃない。生きている限り、この悩ましさからは、逃れられないのだと思う。
「産まれる前に一度、東京で会おうね」
「うん。絶対に会おう」
そう、真依子は今回、東京の実家に里帰りをする予定になっている。ふたり目ということで産後がより大変になることもそうだが、ふだんすぐには帰れない距離ということもあるし、数ヶ月単位で滞在することはしばらくはないだろうから、この機会に戻っておきたいという気持ちもすこしある。
「pleasant」の跡地にはいま、何のお店が入ってるんだろう。商店街の人たちにも、会いたいな。真依子はあの店や商店街の雰囲気を思い出しながら、そっとお腹を撫でた。外からは、豊と俊二の笑い声が聞こえている。
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